中世ヨーロッパ史★★★
時代は宗教改革が起こってプロテスタントの勢いが増してきた頃です。
カトリック対プロテスタントの宗派争いは、最後に三十年戦争という形を迎えます。
ヨーロッパ内最大の戦争であり、かつ、最後の宗教戦争です。
三十年戦争が起こるきっかけと、その内容をみていきましょう。
三十年戦争は1617年~1648年に起きた戦争だよ。
三十年戦争はどうして起きた?
宗教改革が起きた後、カトリック勢力は押されていました。
プロテスタントが勢いづく中で、カトリック教会は教義を固めてより深い浸透を目指すこととなります。
これはかつて「対抗宗教改革」とも言われていたよ。
ヨーロッパではこの頃、君主と宗派の結びつきが強化されていました。
つまり、君主は臣民に宗派を統一させることで、内面から統制し、権力を強化していったのです。
カトリック教会はトリエント公会議で教義を再確認し、16世紀中頃からイエズス会を中心とした巻き返しをはかっていました。
これが功を奏して、ヨーロッパの約半分に広がっていたプロテスタント勢力は、17世紀前半には2割程度にまで縮小しました。
なぜ、プロテスタントはこんなにも縮小してしまったのでしょう?
実は、プロテスタントは一枚岩ではなかったから、内部での解釈・見解の相違で対立が深刻になっていたみたい。
つまり、ルター派やカルヴァン派など、プロテスタント内の宗派でも揉めていたということです。
そんな中、カトリック信仰の篤いハプスブルク家が動きます。
ハプスブルク君主国内で再カトリック化を強化したのです。
もちろん反発がおきます。
暴君の皇帝を下ろせ!と叫ぶカルヴァン派。
やがて、カルヴァン派であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を指導者とするプロテスタントの同盟(ユニオン)が結成されます。
対してハプスブルク側はバイエルンのマクシミリアン1世を指導者とする連盟(リーガ)を結成しました。
対立は深刻化していきます。
そんな中、大事件がおきます。
窓外放擲(ほうてき)事件
オーストリア公フェルディナント2世がチェコ・ハンガリー王位を継承します。
彼は強硬なカトリック信者です。
もちろん、ハプスブルク家です。
そんな彼は、王位継承後に他宗派の信仰を認めないと宣言しました。
これに激高したプロテスタント貴族たちは、プラハ城に押しかけ、そこにいた政府高官を窓の外に投げ出したのです。
これが有名な「窓外放擲事件」です。
そしてこれがきっかけとなり、三十年戦争が勃発します。
ちなみに・・・過去にフス戦争のきっかけとなった事件に、プラハ窓外投擲事件(1419年)がありました。窓から放り投げられたのは前例があったんですね。
ボヘミア・プファルツ戦争(1617年~1623年)
当初、結束したプロテスタント勢力が勝っていましたが、ポーランドの援軍やフェルディナント2世自身が神聖ローマ皇帝に選ばれたことが重なり、徐々に形成は逆転していきます。
スペインからの援護もあって、1620年のビラー・ホラの会戦でフェルディナント2世は勝利します。
「会戦」とは、大規模な兵力を準備して互いに対峙して行われる戦闘のことだよ。
ボヘミア・プファルツ戦争の「ボヘミア」は、もちろんボヘミアで起こったことであり、ボヘミア中心としたプロテスタント連合のことを指します。
「プファルツ」とは、そのボヘミア王として推薦されたプファルツ選帝侯フリードリヒ5世のことです。
「選帝侯」とは神聖ローマ帝国の皇帝選挙権をもった有力諸侯のことだよ。七人しかいないので、かなりの有力諸侯だとわかりますね。
そんなフリードリヒ5世について少し補足しておきます。
フリードリヒ5世は、ボヘミアのプロテスタント達からボヘミア王に推薦され(1619年)、プロテスタントの指導者として戦います。
しかし翌1620年の白山の戦いで神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に敗北していまいます。
その後、スペインとバイエルンの軍隊によってプファルツ本土が占領されてしまい、1623年には選帝侯も廃位されてしまいます。
一応、三十年戦争が終わる1648年までにはフリードリヒ5世の息子カール1世ルートヴィヒが下プファルツを回復しました。
カール1世ルートヴィヒも新設のものとして選帝侯位を授けられましたが、他の選帝侯よりも席次は低いものであったようです。
席次は当時も今も、とても大事な意味をもちます。
ちなみに、フリードリヒ5世とその家族はオランダに亡命しました。
そして、フリードリヒ5世の妻はイギリスのジェームズ1世の子であり、チャールズ1世の姉です。
デンマーク戦争(1625年~1629年)
勢いにのるフェルディナント2世の皇帝軍は、バイエルン軍と共にプロテスタントの多い北ドイツへ侵攻します。
この、神聖ローマ帝国の勢力拡大に危機感を感じたデンマーク王クリスティアン4世が参戦します。
これは裏でフランスとオランダがデンマーク王に戦を焚きつけたとも言われています。
フェルディナント2世はボヘミア軍人であるヴァレンシュタインを登用します。
傭兵隊長ヴァレンシュタインの登場で北ドイツを制圧し、見事デンマーク軍を閉め出しました。
スウェーデン戦争(1630年~1635年)
ここで終わっておけばいいものの、フェルディナント2世は過去のアウグスブルクの宗教和議をなかったことにしようと宣言したのです。
つまり、カトリック以外の宗派は認めません、ってことです。
これには多くの反発を招きます。
また同時に、先の戦で軍功をあげていたヴァレンシュタインのやりたい放題にも批判の目が向けられます。
最終的にフェルディナント2世はヴァレンシュタインを罷免します。
このような中で、神聖ローマ皇帝位を狙うスウェーデン国王グスタフ2世アドルフが参戦します。
どうやらこれも、裏でフランスとオランダがスウェーデン王に戦を焚きつけたと言われています。
この、グスタフ2世アドルフがなかなか強く、戦上手でした。
連戦連勝でなんとドイツ南部にまで進出したのです。
あわてたフェルディナント2世は、苦肉の策でヴァレンシュタインを呼び戻します。
両者はリュッツェンの戦いで激突。(1632年)
スウェーデンが見事勝利をしますが、それと引き替えにグスタフ2世アドルフが戦死してしまいます。
勝利はしたものの、その後スウェーデン軍は統制を失い、勢いを無くしてしまいます。
ヴァレンシュタインは1634年2月にエーガーの居城で皇帝軍の将校らによって暗殺されました。
最終的にはスペインの援軍を得て、フェルディナント2世はネルトリンゲンの会戦で勝利しました。
これでようやく終わると思いきや、最後にまさかのフランスが参戦したのです。
この瞬間、ずっとカトリックとプロテスタントの宗教戦争だったものが、ヨーロッパ覇権をめぐる戦争に変わったのです。
なぜなら、フランスはカトリック国で本来その点では神聖ローマ帝国と対立しないはずなんだ。そんなフランスがプロテスタントのスウェーデン側について参戦したことで宗教戦争は終わりを迎えたんだよ。
フランス・スウェーデン戦争(1635年~1648年)
フェルディナント2世は最初こそ有利に戦を進めていましたが、長年にわたる戦で軍は疲れ切っていました。
徐々に形成は逆転し、また、世の中も厭戦気分(もう戦争やめない?ということ)が蔓延しはじめます。
1640年になると和平の気運が高まり、ようやくドイツ西部の都市ミュンスターとオスナブリュックで交渉が始まります。
しかし、交渉はなかなかうまく進まず、実際に戦争が終わるまではあと8年待たなければなりません。
そうしてようやく締結されたのが1648年のウェストファリア条約(ウェストファーレン条約)です。
オーストリアハプスブルク家神聖ローマ皇帝がフランスと結んだのがミュンスター条約で、スウェーデンと結んだのがオスナブリュック条約です。
これらをあわせて、ウェストファリア条約と呼ばれます。
ウェストファリア条約は歴史の転換点と言ってもいいくらい、後世からみると大事な条約です。
詳しくはまた別の機会に話すとして、近代国際法の元祖ともいうべき条約であることは覚えておきましょう。
何はともあれ、ようやく戦争が終わりました。
もう疲れたよ、というのがヨーロッパ全体で見て取れるほど土地は焦土化し、あまりにも多くの人が亡くなりました。
この後、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国は衰退していき、ヨーロッパではイギリスが大英帝国を築いて覇権をとる時代に突入していきます。