中世ヨーロッパ史★★★
高校の世界史を学んでいると、似たような名前・人物がいくつか出てくると思います。
今日はその中でも、「フリードリヒ」という名の人物をまとめていきます。
どんな「フリードリヒ」がいるのか、時代に沿って順番に見ていきましょう!
ホーエンシュタウフェン朝
フリードリヒ1世(通称:赤ひげ王、バルバロッサ)
時代は12世紀です。
現ドイツですが、当時の呼び名に当てはめるなら神聖ローマ帝国です。
フリードリヒ1世は、赤みがかったひげを生やしていたので、赤ひげ王やバルバロッサ(イタリア語で赤ひげの意)と呼ばれています。
彼は第2代神聖ローマ皇帝に選ばれ、在位期間は1152年~1190年までです。
教科書的に登場するのは、十字軍の時です。
第3回十字軍に参戦するも、遠征途中の川で溺死
ほぼこの話で終わるのではないでしょうか。
まぁ、これで終わるのもあれなので、もう少し掘り起こしてみましょうか。
フリードリヒ1世は、イタリア政策を推進して1158年~1178年まで、4回にわたって北イタリアに遠征。
しかしロンバルディア同盟に阻まれて失敗しています。
ロンバルディア同盟とは?
フリードリヒ1世の度重なる遠征を受けて、1167年に結成された北イタリア ・ ロンバルディア地方を中心とする都市同盟。ミラノやヴェネツィア、ジェノヴァなど複数都市の間で結成されました。イタリアは当時、皇帝派(神聖ローマ帝国寄り)と教皇派(イタリア内で独立していたい派)に分かれており、ローマ教皇の支援を受けたのが教皇派です。教皇はイタリアにおける皇帝の勢力が後退することを望んでいたので利害が一致していました。その教皇派の集まりが、ロンバルディア同盟です。
北がダメなら南へ…と、シチリアにも進出しています。
結果的に1194年、フリードリヒ1世の子であるハインリヒ6世がパレルモでシチリア国王に即位しました。
ここに、シチリア王国のノルマン朝時代が終わり、ホーエンシュタウフェン朝に受け継がれることとなりました。
フリードリヒ2世(玉座の上の最初の近代人)
先のフリードリヒ1世の孫にあたるのが、フリードリヒ2世です。
ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェとの間に生まれました。
そう、フリードリヒ2世はシチリア王国で生まれています。
そして彼が3歳のとき、父ハインリヒ6世はなくなってしまったので、3歳でシチリア王を継ぎます。
当時のシチリアにはイスラム人もローマ人も共生していたので、多様な文化や人種との交流がありました。
フリードリヒ2世は知性豊かで語学が堪能、かなりの知識人だったと言われています。
ラテン語、ギリシア語、アラビア語など…6か国語を話せたとか。
乗馬や槍術にも優れていたようですから、まさに文武両道。
さらに、当時はイスラム地域の方が先進的で科学文明が発達していたため、フリードリヒ2世もアラビア科学に大きな刺激を受けていたようです。
話は少しそれますが、1224年、フリードリヒ2世はヨーロッパ初の国立大学であるナポリ大学を創設しました。
解剖学にも触れていたというフリードリヒ2世。
知識に貪欲で、当時にしては相当柔軟な頭の持ち主だったのでしょう。
そんなフリードリヒ2世は、1212年にドイツ王に、1220年に神聖ローマ帝国皇帝に即位します。
ところが、彼はローマで戴冠式を行ったのち、ドイツではなく生涯のほとんどをイタリアで過ごしました。
ドイツで過ごしていたのは9年間のみ。
ドイツについては早々に息子のハインリヒ7世に任せ、自分はどうやら祖父が叶えることができなかったイタリア半島支配をもくろんでいたようです。
こういった行動もローマ教皇に目をつけられていたと思いますが、なんといっても「科学」を信じて「神」への信仰をおろそかにしている、そう映ったフリードリヒ2世をとにかく嫌悪していたようです。
結果的にフリードリヒ2世はローマ教皇から2回も破門されています。
途中、1228年に第5回十字軍遠征を指揮しています。
破門された状態で行ったので、破門十字軍とも呼ばれています。
フリードリヒ2世自身は十字軍に行くことを拒否していましたが、ローマ教皇が早く行けと煽ってきたためしぶしぶ出発しています。
そんな破門状態のフリードリヒ2世になかなか諸侯たちもついていく気になりません。
フリードリヒ2世は十字軍に備えてイタリア諸侯を十字軍に募るべくイタリアへ出兵したのですが、これに反抗して結成されたのが二回目のロンバルディア同盟です。
とりあえずフリードリヒ2世はアラビア語も堪能であったこと、イスラムへの理解もあったことから第5回十字軍は戦わずしてイスラム側と平和条約を結ぶことができました。
これが有名な「玉座の上の最初の近代人」と言われる所以です。
アイユーブ朝スルタンであるアル・カーミルと、ヤッファ協定を結び、1229年から10年の期限つきでイェルサルムはキリスト教に返還されたのです。
というか、イスラム教とキリスト教、両方の聖地であるので、お互い譲歩しながらこの地を巡礼しましょう、といったような内容です。
ところが、ローマ教皇はこれに納得しません。
さらに、息子であるドイツ王ハインリヒ7世までもがまさかの蜂起。
ローマ教皇とロンバルディア同盟の支援を受けての蜂起でした。
「ドイツ内の諸侯たちの横暴が続いたのに、父は咎めるどころかそれらを許した」ということに対する不満が、ハインリヒ7世にはあったようです。
「ローマ教皇・ロンバルディア同盟・ハインリヒ7世」V.S「ドイツ諸侯・神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世」
結果的にはフリードリヒ2世側が鎮圧し、ハインリヒ7世は自害。
また、北イタリアの諸都市を攻撃し、ロンバルディア同盟を打ち破ります。
これに怒ったローマ教皇は2度目の破門と神聖ローマ帝国皇帝の廃位を言い渡します。
フリードリヒ2世は無視。
争いが長引くなか、1250年、フリードリヒ2世は亡くなってしまいました。
この後、子であるコンラート4世がシチリア王、神聖ローマ帝国皇帝を継ぎますが、病気で1254年に急逝してしまいます。
コンラート4世には子がいませんでした。
ここに、ホーエンシュタウフェン朝の血脈は途絶えることとなりました。
\ ボタンだよ /
そして、神聖ローマ帝国皇帝は大空位時代に突入していきます。
ちなみに、次に神聖ローマ帝国皇帝として在位する人物が現れるのは約20年後、ハプスブルク家のルドルフ1世まで待たなければなりません。
ホーエンツォレルン家
フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)
時代はだいぶ進みます。
1700年代に突入です。
フリードリヒ大王という名称で親しまれている、フリードリヒ2世です。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテアの子として生まれました。
父親もフリードリヒって名前がつくのか。
ついでに言うとおじいさんがフリードリヒ1世です。
混乱する!!
ひいおじいさんはフリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)ですよ。
もうやめてくれー!!
フリードリヒ2世は28歳でプロイセン王となります。
フリードリヒ2世が有名なのは、オーストリア継承戦争の頃の話かと思います。
オーストリア・ハプスブルク家のカール6世が没したとき、後継者として男子がいませんでした。
この結果、新たに即位したのは娘マリア・テレジアの夫フランツ1世でした。
オーストリア継承戦争とは、簡単に言うと「神聖ローマ皇帝の地位を占めるハプスブルク家の当主にを、マリア・テレジアが継ぐかどうかをめぐる争い」です。
周辺国は反発します。
そうこうしているうちに、「継承を認めてやるから、分け前をよこせ」となります。
フリードリヒ2世は、オーストリアにとって大事な工業地帯である「シュレジェン」をよこせと言ったのです。
もちろんマリア・テレジアは拒否しますが、当時プロイセンの軍はオーストリアなんかまったく刃が立たないくらい強かったのです。
フリードリヒ2世はシュレジェンを奪い取りました。
その後マリア・テレジアはシュレジェン奪回を掲げ、七年戦争に突入しますが、フリードリヒ2世はなんとか耐えてシュレジェンを守り切ったのです。
なんで、孤軍奮闘でしたから。
プロイセンに与したのはイギリスのみで、イギリスからしたら大陸の戦争に介入する気はさらさらなく、資金面の援助のみでした。
その他の大国、フランス・ロシアはオーストリア側だったので、1国で3国を相手にする状況でした。
一時はフリードリヒ2世が自害を考える程苦戦が続いたようでしたが、ロシアの女帝エリザヴェータが亡くなったことで転機が訪れます。
エリザヴェータの後に即位したのはピョートル3世でした。
彼は14歳までドイツで育ち、フリードリヒ2世をとてつもなく崇拝していました。
フリードリヒ2世は軍才もあり、当時はまだ小国だったにもかかわらず大国相手に戦う姿はまさに英雄です。
ピョートル3世はオーストリア側の戦いから離脱。
そしてフリードリヒ2世に全面協力したのです。
フリードリヒ2世自身に才腕があったためここまで持ちこたえることができたのですが、最終的にロシアが味方してくれたのは大きく、七年戦争を勝利で収めることができました。
【余談話】オーストリアとフランスは昔から仲が悪く、オーストリアが戦禍に巻き込まれるとき、フランスは必ず敵国側と組むようになっています。ところが七年戦争開戦前、マリア・テレジアは外交を駆使し、フランスのポンパドール夫人、ロシアの女帝エリザヴェータと同盟を組んだのです。フランス(ブルボン家)とオーストリア(ハプスブルク家)が同盟!?当時これは「外交革命」と呼ばれました。また、女性たちによる外交であったことから「貴婦人たちの同盟」や「スカート同盟」と呼ばれました。このフランスとオーストリアの接近がきっかけで、マリア・テレジアの末娘であるマリー・アントワネットが後にフランスルイ16世に嫁ぐことになるのです。
ちなみに、なぜ「大王」と呼ばれるようになったか。
フリードリヒ2世は学問にも芸術にもあかるく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、全30巻にも及ぶ膨大な著作を著し哲人王とも呼ばれたそうです。
これらの功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されたようです。
参考書籍
「ヨーロッパ王室」から見た世界史|内藤博文著|青春出版社
嘘だらけの日仏近代史|倉山満著|株式会社扶桑社