フリードリヒ2世は相続でシチリア・ナポリ両王国を得ることとなります。
彼は神聖ローマ皇帝となるものの、実際はイタリアで過ごすことが多かったようです。
フリードリヒ2世時代のヨーロッパ地図を見ておきましょう。
フリードリヒ2世が亡くなったのち、神聖ローマ皇帝を継承したのは彼の子のコンラート4世です。
しかし、コンラート4世には子がいなかったためフリードリヒ2世の直系は途絶え、ホーエンシュタウフェン朝は1254年に終わってしまいます。
その後神聖ローマ皇帝は混乱が続き、正式な皇帝が現れることがなく大空位時代と呼ばれました。
そんな中登場したのがハプスブルク家でした。
大空位時代を終わらせたのはハプスブルク家のルドルフ1世です。
一方、シチリア・ナポリ両王国はどうなっているでしょう?
ここはフリードリヒ2世の庶子(=正妻でない女性の生んだ子)であるマンフレーディが継承します。
ところがこのマンフレーディ、とても好戦的でイタリア全体を支配しようとします。
これには教皇も黙ってはいません。
当時の教皇はフランス出身のウルバヌス4世です。
彼はフランス王ルイ9世に支援を求めます。
ルイ9世といえば、第7回・第8回の十字軍に遠征し、その第8回十字軍で感染病(一説にはペスト)により死んだ王です。
死後、ルイ9世は聖王ルイと列聖され、アメリカのセントルイスの地名もルイ9世からきています。
話を戻して、ルイ9世に助けを求めたウルバヌス4世ですが、あまり乗り気ではなかったようで、結局ルイ9世の弟であるシャルル=ダンジューをシチリア王に任命し、マンフレーディと対決させたのです。
残念なことに、マンフレーディは敗死し、シャルル=ダンジューが勝利します。
ここに、シチリアでもホーエンシュタウフェン朝は終わりを告げました。
さて、その後のシャルル=ダンジューですが、まぁ人気がないわけです。
彼がシチリアを支配してからというもの、フランス人の流入が増え、我が物顔に幅をきかせていたことがシチリア人の怒りにふれたようです。
シチリア人たちが蜂起します。
シチリア人たちはアラゴン王家に支援を求めます。
アラゴン王家は当時イベリア半島にあったアラゴン連合王国の王で、まだレコンキスタは完了していないもののイベリア半島で力をつけはじめたキリスト教王国の1つでした。
アラゴン王家であるペドロ3世は、ホーエンシュタウフェン家の娘コンスタンツァと結婚していたため、シチリア王を継承する権利があったのです。
さぁ、ここにローマ教皇・シャルル=ダンジューV.Sシチリア・ペドロ3世の戦いが始まります。
結果的にはペドロ3世が勝利します。
彼はローマ教皇からの破門にも屈せず、また、フランス王からアラゴン王国を攻められてもはねのけ、ついにはシチリア・ナポリ両王国を確保したのです。
プラス、サルディーニャ島もおまけつきで確保。
この後、1701年のスペイン継承戦争が起こり、フランスブルボン家がスペインを継承する際にオーストリアハプスブルク家にイタリアにある諸地域を渡すまで、スペインが南イタリアを支配するようになったのです。