2025年、大阪・関西万博が開催されています。
日本で開催された万博は何回かあります。
- 1970年3月15日~9月13日 大阪万博
- 1975年7月15日~1976年1月18日 沖縄海洋博
- 1985年3月17日~9月16日 つくば博
- 1990年4月1日~9月30日 大阪花博
- 2005年3月25日~9月25日 愛知万博
万博には2種類あって、1970年と2005年に開催された万博は、「登録博」といわれるものです。
簡単にいうと、テーマが広く大規模なものが登録博です。
もう1つは、「認定博」です。
特定部門にテーマを絞ったもので、沖縄では世界ではじめて「海」をテーマにした国際博覧会となりました。
つくば博は科学技術にテーマを絞っています。
そして花博は植物をテーマに開催されています。
そんな万博ですが、はじまりはいつだったのでしょうか。
世界史にも通じるところなので、その始まりを振り返ってみましょう。
万博のはじまり
はじめて万国博覧会が開催されたのは1851年でした。
イギリスのロンドンで開催された、「第一回ロンドン万国博覧会」です。
1851年5月1日、ロンドンのハイドパークにて開会式が行われました。
当時のイギリスは産業革命を経て繁栄を極めていました。
万博を開催することで、圧倒的な工業力を世界に知らしめることになったのです。
特にロンドンのハイドパークに建てられた会場は、その外見からクリスタルパレス(水晶宮)と呼ばれ、この建物自体が最大の目玉展示物となりました。
全長563メートル、幅124メートルの巨大な建物は293,655枚のガラスで覆われていて、それはもう壮観でした。
このクリスタルパレス、いまはどうなってるのか気になりますよね。
残念ながら焼失して残っていないようです・・・。
水晶宮は、博覧会終了後も取り壊しを惜しむ声が多かったため、1854年にロンドン郊外のシデナムに移設された。新水晶宮は、面積を拡大し、植物園、博物館、コンサートホールなどを持つ巨大な施設として生まれ変わり、市民の憩いの場、娯楽の場として親しまれた。ヴィクトリア女王とアルバート公夫妻もしばしばここを訪問し、福澤諭吉も日本の文久使節団の一員として1862年に訪れている。しかし、この水晶宮は1936年に火災によって焼け落ちてしまい、現在では跡地は公園となっている。
引用元:博覧会近代技術の展示場より(水晶宮の建設とその後 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)
万博の参加国は34か国で会期中の延べ入場者数は約606万人といわれており、第一回開催は大成功に終わりました。
さて、そんな万博が開催されたとき、イギリスの国王は誰だったのでしょう・・・?
国王夫妻の貢献
ロンドン万博のときに国王だったのはヴィクトリア女王でした。
彼女は思いがけない形でイギリス王に就くこととなり、数奇な運命を辿った女王です。
ロンドン万博のときは32歳なので、既に女王として絶頂の極みにいたわけですが、実はこのロンドン万博を推進した中心人物は彼女の夫であるアルバート公でした。
アルバート公が、水晶宮建設を計画し、各機関・各職人に働きかけていました。
ところが当時は冷ややかな目で見られていたようです。
そんなのできるわけない、費用はどうするのだ、といった非難を、アルバート公は浴びることとなります。
ところが実際開催日となり水晶宮がお披露目となると世論は一転、賞賛に変わったのです。
ジャガイモ飢饉とイギリス
こんなに輝かしく華やかな万博が開催されている一方、国際情勢は厳しさを極めます。
1つはジャガイモ飢饉です。
万博開催前にはなりますが、その頃ジャガイモ疫病がヨーロッパ各地を襲います。
アメリカ起源のこの病気は、その感染の進行の速さが特徴で、1845年7月にベルギーで感染確認され、8月にはパリやドイツ西部にも広がり、8月末にはアイルランドに上陸しました。
特にアイルランドではこの病気は苛烈を極めました。
アイルランドで植えられていたランパー種が特にジャガイモ疫病の影響を受けやすい品種だったのです。
当時、アイルランドの地はイギリスに支配・搾取されており、多くのアイルランド人は残された石と岩盤だらけの痩せた土地に追いやられていました。
そこでなんとか育てることができたのがジャガイモでした。
そのジャガイモが疫病で育たないとなると、彼らは何を食べて生きていけばいいのでしょうか。
補える作物がなく、そしてイギリスからの支援はなく、ただ飢えを受け入れて死ぬ他なかったのです。
これは自然が生んだ悲惨な歴史ではなく、避けることができたはずの悲しすぎる飢饉でした。
アイルランドの人口は1760年の150万人から、ジャガイモと出会えたことで1841年には約800万人となりました。
しかし、ジャガイモ飢饉に襲われて助けがなかったことで1851年には約655万人にまで減少してしまったのです。
これは少なく見積もってもこの数だろう、ということで実際はもっと減少していたのかもしれません。
一部は飢えに耐えかねてアメリカへ命からがら渡った人もいます。
その末裔として有名な人物がJ・F・ケネディです。
彼の曽祖父はこのジャガイモ飢饉のときにアイルランドからアメリカに移った人だったのです。
まぁ、もともとアイルランドでは土地と家畜を持ついわゆる富裕層の部類にいた人物だったので、飢えに耐えかねて渡った移民ではありませんが。
でもこのジャガイモ飢饉で疲弊したアイルランドから渡米したという意味では、ジャガイモ飢饉が歴史に与えたインパクトは相当なものだと思います。
さて、もう1つは万博後にはなりますが大きな戦争がはじまります。
クリミア戦争とイギリス
1853年11月、ロシアがトルコに宣戦布告し、クリミア戦争が勃発しました。
この戦争は1856年3月まで続きます。
事の発端はオスマン帝国がロシアに認めなかった、オスマン帝国領内のギリシア正教の保護権でした。
何度か要請するものの認めてもらえなかったロシアがいた一方で、フランス皇帝(このときはナポレオン三世)が要請したオスマン帝国領内イェルサレムでのローマ・カトリック教徒の保護権が認められたことに、ロシア皇帝は激怒したのでした。
1853年にロシア帝国とオスマン帝国は外交関係を絶ちました。
このときもイギリスはヴィクトリア女王の時代ですが、イギリス含め周辺国はこの2国間の関係を改善させることができずクリミア戦争に突入してしまったのです。
イギリスは当時大国であったにもかかわらず、なぜうまく調停できなかったのか。
実はこの頃のイギリスは、国内がゴタゴタしていて何をするにも決断ができない、決裂が起きる、どうしようもない状態だったのです。
内閣が不安定であればいくらヴィクトリア女王下の大国イギリスでも、なすすべがありません。
結局、英仏両国も1854年3月にクリミア戦争に参戦しています。
ロシアに南下されて勢力拡大されては困る、しかし戦争となれば資金調達が必要。
そして蓋をあけてみれば、イギリス陸軍はナポレオン戦争後、近代化をせず怠ってきたツケがここにあらわとなってしまいます。
クリミア戦争は当初想定されていた以上に長引くこととなりました。
それでもなんとかイギリスはフランス陸軍とロシアのセヴァストポリを打ち破ることに成功し、パリ条約で終戦となります。
しかしこれはヴィクトリア女王が叶えたかった「ロシア軍への徹底的な打撃」までは実現できず、なんとも消化不良な終わりを迎えたようでした。
ロンドンでの万博という華やかな歴史が刻まれた一方で、ヨーロッパ世界は混沌とした状況が渦巻いていたことは間違いありません。
近代化と戦争。
ここからヨーロッパはビスマルク体制を経て第一次世界大戦へと向かっていきます。
その一方で1867年に第二回パリ万博が開催され、これが日本が初めて国際博覧会に出展した万博でした。
ちなみに、近代オリンピックの第一回は1896年、ギリシャのアテネで開催されました。
この時代、未来につながる輝かしい発展が映し出される一方、ウィーン体制からの勢力均衡が崩れていく不穏な空気も流れていて、このあとの歴史を知っている者からしても不思議な緊張感を抱いてしまう時代だなとあらためて感じてしまいますね。
参考図書
ヴィクトリア女王 大英帝国の戦う女王:中公新書 君塚直隆著
ジャガイモの世界史:中公新書 伊藤章治著
その他にも本を紹介しています★ぜひおもしろそうな本が見つかったら読んでみてください!
