ジャンヌ=ダルクの生涯〜火刑と聖人までの軌跡〜

中世ヨーロッパ史★★★/宗教史★★

ジャンヌ=ダルクは、聖人です。

でも彼女は当時、火あぶりの刑で処刑されています。

聖人であるはずのジャンヌ=ダルクが、なぜ処刑されたのか。

彼女が歩んだ短い生涯を一緒にたどってみましょう。

もくじ

時代背景

ときは英仏百年戦争の真っただ中、1428年。

英仏百年戦争は1339年9月末から断続的に続いていました。

この頃の英=イギリスは、今私たちが考えるイギリスのイメージとは少し異なります。

英仏百年戦争時代のイギリス:ブリテン島の南半分を征服。また、フランス本土にも領地がある。

ブリテン島の北半分はスコットランド王国が支配しており、隣の島のアイルランドも独立しています。

フランス本土の領土って?

当時のフランス内では国王の領地よりも、貴族の領地の方が大きいことがあったんだよ。
その中で最大の貴族はアキテーヌ公で、このアキテーヌ公はイングランド王が世襲していたんだよ。

複雑だな…

まさに、この複雑さが英仏百年戦争の引き金になります。

フランスのカペー朝が断絶したことから話は始まっていきます。

・フランスカペー朝が断絶し、ヴァロワ家フィリップ6世に次期国王が移ると、イングランドの所領である(フランス内の領土)ギュイエンヌを没収します。

・これにイングランドのエドワード3世が激怒。

・また、「自分にも王位継承権があるはずだ!」と主張したことがきっかけで英仏百年戦争が勃発。

当時のヨーロッパはもちろんまだ国という概念はなく、お隣同士婚姻をしたりしているため、家系図を辿っていくと親族関係で繋がることは多いです。

エドワード3世が主張したのも、彼を辿っていくとフランスカペー朝のイザベルへと繋がるためです。

英仏百年戦争は100年も続いた!?

ところで、ジャンヌ=ダルクが登場するのは英仏百年戦争のほぼ終盤の頃です。

開戦当初はイングランドが優勢、その後ペスト流行でヨーロッパは荒廃し、戦争も一時中断。

この頃、人口の3分の1ほどがペストで亡くなったといわれています。

中盤はフランスが盛り返すも、その後イングランドではワット・タイラーの乱、フランスではジャックリーの乱と、農民蜂起が各地で起きたため、またもや戦争を一時中断。

そうこうしているうちにフランス内部で分裂が起こります。

内部分裂のきっかけは、国王シャルル6世の精神疾患です。

まともな政務を執ることができなくなったため、親国王のアルマニャック派親イングランドのブルゴーニュ派とが争ってしまいます。

この時、英仏は1396年~1426年まで休戦協定を結んでいたので、本来なら戦争になることはないのですが、この内部分裂に乗じてイングランド軍がノルマンディーに侵入して大勝します。

国王シャルル6世が亡くなり、なんとイングランド王ヘンリ5世がフランス王位を継承します。

1415年です。

実はこの時、もう一つ歴史上大事な出来事が勃発していました。

フス戦争です。

ヤン・フスというチェコ(当時はベーメン)の聖職者が、教会批判を行ったのです。

宗教改革前夜ともいうべき、カトリックへの批判です。

実際は、1376年にイングランドのウィクリフという大学教授が批判したのが始まりだとされていますが、バチカン内で戦慄は走ったもののそのときはまだ大きな声として捉えられることはありませんでした。

ところが今回は違います。

「なぜ、神の声をきくのに、聖職者やローマ教会を通さなければならないのか。」

「聖書にはそんなこと、一つも書かれていないはずだ。」

当時、聖書を読むことができたのは聖職者や一部の知識人のみでした。

ラテン語で書かれている聖書を、庶民は手にすることもできませんし、もちろん読むことができません。

それをいいことに聖職者たちはやりたい放題なのでは?それはおかしい、とウィクリフもフスも主張したのです。

こうも立て続けに批判されては困ります。

バチカンはフスをだまし討ちにし、1415年に火あぶりの刑で処刑しました。

これにフスの支持者たちは怒り、フス戦争に繋がったのです。

これは1436年まで続きます。

庶民の間に広がりつつあったこの小さなうねりは、後のルターによる宗教改革に繋がっていきます。

つまり、バチカン批判というか、カトリックへの批判が起こっていたから、教皇側はピリピリしていたことがわかるよね。

そんな時にジャンヌ=ダルクが登場してくるのね。

話を戻します。

イングランド王ヘンリ5世がノルマンディーを占領し、その勢いでルーアンやオルレアンも占領していきます。

しかし、ヘンリ5世はまさかの2年後に突如亡くなってしまいます。

そこで急きょ王位継承したのはヘンリ5世の子、ヘンリ6世です。

なんとまだ生後10か月です。

そこでこのゴタゴタに乗じて、フランスシャルル7世が王位に就こうとしますが、なかなかうまくいきません。

戦争が長引きます。

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ジャンヌ=ダルクの登場

ジャンヌ=ダルクは、13歳のときに神の声を聞いたといいます。

シャルル7世をオルレアンから救い出して王位に就けよ」と神に命じられたというのです。

色々逸話はあるものの、この話はジャンヌ自身が処刑裁判の時に述べていると記述に残されているようです。

ジャンヌ=ダルクはこれに従い、シャルル7世のもとに向かいます。

初めての対面はシノン城でした。

かの有名な、シャルル7世を見抜く逸話がそれです。

ジャンヌ=ダルクがシノン城に向かっている、ということを耳にしたシャルル7世は、家臣の中にまぎれてジャンヌ=ダルクを待っていたところ、到着したジャンヌ=ダルクは迷うそぶりもなくまっすぐにシャルル7世の前に立ち、見事にシャルル7世を当てた、という逸話です。

これにより、シャルル7世はジャンヌ=ダルクを指揮官に加えてオルレアンに向けて救援軍を派遣しました。

1428年、イングランド軍がシャルル7世とアルマニャック派の拠点であるオルレアン市を包囲します。

ここを取られると、フランス側の王位継承が叶わなくなる大ピンチです。

ジャンヌ=ダルク率いる援軍がオルレアン市に到着します。

そしてイングランド軍に見事勝利。

オルレアンの包囲を解きます(1429年パテーの戦い)

これが、オルレアンの奇跡です。

さらにシャルル7世はジャンヌ=ダルクに促されて、1429年7月、ランスのノートルダム大聖堂で正式に戴冠式を挙行したのです。

こうして、シャルル7世はフランス国王として戴冠式を終えます。

その後ジャンヌ=ダルクはパリに向かい、イングランド軍を追い出そうと闘うのですが、まさかのブルゴーニュ派に捕まりイングランド軍に引き渡されてしまいます。(1430年コンピエーニュの戦い)

そして、宗教裁判にかけられて火あぶり処刑です。

1431年、19歳という短い生涯でした。

彼女を助ける者はいなかったのだろうか、と疑問が残ります。

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なぜジャンヌ=ダルクは処刑されたのか

さて、先ほどヤン・フスの話をしましたが、ここで宗教的観点が大事になってきます。

ジャンヌ=ダルクは敬虔なカトリック信者です。

なのに、最終的にはローマ教皇から異端認定され、魔女として裁かれ火あぶり処刑です。

教皇庁はもちろん、カトリックです。

カトリックであるジャンヌ=ダルクはなぜ、ローマ・カトリック教会から異端・魔女扱いにされたのか。

それは、「神の声を聞いた」からです。

当時、神の声をいち個人が聴くなんて言語道断。

教皇庁的には、我々を通さずに神の声を聞くなんて何事だ、ということです。

さらに、このときはフス戦争真っただ中。

こと「神の声」に関してはかなり神経を尖らしていたはずです。

また、魔女とは、悪魔と契約しキリスト教社会の秩序や安寧を破壊しようとする背教者、という位置づけでもあります。

一度異端認定され裁判にかけられると、無罪になることはほぼありません。

現代の感覚で当時の物事を考えてはいけませんが、気に入らなかったら「魔女」認定で火あぶりにしてしまえ、という一種のやっつけ感もあったのではないかと思ってしまいます。

出る杭は打たれる、それほどジャンヌ=ダルクの社会的影響力は大きかったのではないかとも推察されますし、また、この当時の権力者たちが宗教的な観点から悪影響を及ぼしかねないと判断したのかもしれません。

国王にしてもらったシャルル7世はどう思っていたのか。

彼が仮にジャンヌ=ダルクを助けようといった行動・言動があったら、彼もまたローマ・カトリック教会から睨まれていたかもしれません。

そうすると、またも戦争の終わりが見えなくなってしまう、と考えたのかもしれません。

とにもかくにも、ここにジャンヌ=ダルクの生涯は終わりました。

ジャンヌ=ダルク、聖人に列聖

百年戦争が終わった後、ジャンヌ=ダルクの名誉回復を求める復権裁判が行われました。(1455年)

そしてなんとその翌年、ジャンヌ=ダルクの無実と殉教が宣言され、異端認定が取り消されたのです。

彼女はキリスト教徒として復権したのでした。

そしてジャンヌ=ダルクの死から約500年後…

1909年、ジャンヌ=ダルクは列福されます(カトリック教会で奇跡を1回起こした福者として認定さること)

また、1920年には列聖され(奇跡を2回起こした聖人として認定すること)、聖ジャンヌ=ダルクとなりました。

なぜこのタイミングだったのか。

近代に入り混沌とした社会、第一次世界大戦という国と国との総力戦。

ジャンヌ=ダルクは次第にフランスの国民統合の象徴と見られるようになりました。

つまり、英雄視されたわけですね。

理不尽な死を遂げたままでなく名誉回復されたことはよかったなと思うのですが、まさか聖人までいくとは思いもしなかったことでしょう。

百年戦争後のヨーロッパ

その後の話ですが、1435年にアルマニャック派とブルゴーニュ派の和解が成立し、イングランド軍からパリを奪回、そのままボルドー地方も奪回し、フランスのカレー地方以外からイングランド軍をすべて追い出し、ここにフランス勝利・英仏百年戦争が終結します。

イングランドは、ある意味これをもって「島国」として生きていくこととなります。

今まではイングランドという島を支配しつつフランスに拠点を置いている、といった感覚でしたが、以降は「島国」イングランドが誕生していくのです。

しかし、百年戦争が終わったらすぐにイギリスは王位継承の薔薇戦争が始まってしまいます…中世ヨーロッパは本当に、どうしようもないくらい戦だらけです。

この後、ヨーロッパ大陸はウィクリフ、ヤン・フスから繋がる宗教改革が旋風を巻き起こしていきます。

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