カノッサの屈辱って何?

中世ヨーロッパ史★★★/宗教史★★

これ、出来事の名前だけ覚えてるなー!

なんの屈辱があったんだろ?って興味が湧くフレーズよね。

教科書に必ず載っている有名な事件だね

カノッサって誰なんだ?

そもそも、この事件がなぜこんなに大きく取り上げられるのか。

そこには教皇と皇帝の権力闘争が垣間見えます。

もくじ

叙任権

まずは叙任権(じょにんけん)の話から始めていきましょう。

当時の聖職者は教皇を頂点としたピラミッド型のヒエラルキーです。

教皇→大司教→司教→司祭→修道院長、といった具合です。

しかし、この聖職者たちを任命するのは教皇ではなく、皇帝や国王といった世俗権力者です。

つまり、聖職者として地位が上がるかどうかは世俗権力者が叙任権を握っているので、彼ら次第となるわけです。

こうなると、自分を上位に就けてほしい、といった聖職者が世俗権力者にすり寄るという腐敗が生じやすくなります。

お金で地位や権力を得ていく、といった感じですね。

腐敗を止めるために改革を

まさにこの世俗権力を使ったのが、神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世でした。

彼は北イタリアにおける影響力を増すために、自分の駒になる聖職者たちを司教等に任命していきます。

これじゃいかんということで、この頃改革をしようと中心になったのが、クリュニー修道院です。

教会は世俗権力から独立せねば!と、叙任権を世俗権力から剥がして、教皇権を強化しようとしました。

1076年、聖職叙任権闘争がピークに達します。

この時の教皇は、クリュニー修道院出身のグレゴリウス7世です。

教皇権を強化したいグレゴリウス7世、それに反発する皇帝ハインリヒ4世。

そしてついに、教皇グレゴリウス7世はヴォルムス会議でハインリヒ4世を破門してしまいます。

叙任権はないといえど、教皇は聖職者のトップです。

「破門」を言い渡せるのは教皇のみです。

「破門」の恐ろしさ

「破門」といわれ、そうですか、で済まないのが当時の世界です。

カトリック教会から破門されるということは、人じゃないと烙印を押されるようなものです。

さて、このピンチに誰か皇帝を庇うものが現れるのか?と思いきや、ドイツ諸侯たちはこれを機に皇帝にたたみかけます。

元々ハインリヒ4世の権力の大きさに異を唱えていた反対派の諸侯たちがこう言うのです。

「来年2月2日までに破門を解いてもらえなければ、皇帝を廃位する決議を行います」

つまり、皇帝から降りてもらいますよ、ってことだね。

これにはハインリヒ4世も慌てふためきます。

こうしてハインリヒ4世は、教皇に赦しを得るため(破門を解いてもらうため)、グレゴリウス7世が滞在している北イタリアのカノッサ城まで向かうのです。

カノッサは人じゃないのか!!

城の名だよ

しかし、すぐには会ってもらえず、会える確約もないわけです。

暦は1月。

雪が降りしきる中、ひたすら待ち続けること3日。

なんとか対面が叶い、破門が解かれることとなりました。

これが屈辱ってわけね。

確かに、雪の中ひたすら赦しを乞うために待ち続けたっていうのは皇帝としてはかなりの屈辱だね。

まぁ、命があっただけよかったってやつじゃん。

でもまだ話は終わりません

ハインリヒ4世の反撃

しかし事はこれでは終わりません。

教科書にはその後両者妥協し叙任権闘争は終結した、となっていますがそこに至る部分は省略されています。

実は、ハインリヒ4世は破門を解かれたあとドイツに戻ると、直ちに反対派の諸侯を制圧します。

そして今度はハインリヒ4世が軍勢を率いてローマへ向かい、グレゴリウス7世に圧をかけローマから追い出します。

ハインリヒ4世はグレゴリウス7世の廃位を決議し、クレメンス3世という新たな教皇を立てました。

グレゴリウス7世は1085年、失意のうちに亡くなりました。

じゃぁ結局ハインリヒ4世が勝利したのね。

と思うよね?

え?まさかまだあるの?

ハインリヒ4世はカノッサの屈辱から見事復活して反撃したものの、ドイツ国内で諸侯の反乱が相次ぎます。

ついには息子であるハインリヒ5世によって廃位させられ、国中を逃げ回ってそのまま死を迎えてしまうのです。

あまり人望がなかったのかな。

その後はウルバヌス2世が教皇になり、政治主導がローマ教皇に移っていきます。

十字軍運動の提唱がその決定打となります。(1096年)

また、ハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世がヴォルムス協約を締結します。(1122年)

聖職叙任権闘争はこれをもって決着がつき、終わりを迎えました。

どうなったかというと、

・教皇が聖職叙任権を得る

・皇帝はドイツ領内の教会・修道院に領地を授ける権利を持つ

というお互いの妥協点を見つけ出したのです。

この後、教皇の権力は13世紀のインノケンティウス3世のときに絶頂を迎えることとなります。

さて、カノッサの屈辱という歴史的事件は、聖職叙任権闘争の一部分だったことがわかってもらえたかと思います。

ただこの事件は後世、さまざまなタイミングで引き合いに出されることが多かったようです。

例えば、ローマ教皇庁では「皇帝ですら教皇に跪いたんだぞ!」という教皇権の優位性を宣伝するために使いました。

また一方で、宗教改革以降ドイツのプロテスタントたちは反教皇の立場からこの事件を取り上げたりもしています。

なるほど。こうやって過去のいち事件だったものが語り継がれていったから、人々の記憶にはっきり残ってきたのかな。

意外と深い話だったのね、カノッサの屈辱って!

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