世界史って同じ名前がたくさんでてきてややこしいですよね・・・
今日はオットー大帝からフリードリヒ2世までの歴代神聖ローマ皇帝を、家系図を使って確認していきましょう。
意外なところで親戚関係があるかも?
オットー大帝よりも前の歴史はこちら↓
東フランク王国のルートヴィヒ4世でカロリング家は断絶します。
その後、ルートヴィヒ4世の甥コンラート1世が東フランク王を継承します。
そして次は世襲を諦めて、当時独立心が強かったザクセン家を抑えるために、王位継承者をザクセン家ハインリヒ1世に指名したのです。
ここからザクセン家の世襲がしばらく続きます。
ハインリヒ1世の息子がオットー大帝です。
単なる東フランク王ではなく、ローマ教皇の戴冠を受けて皇帝になった、というのはここから始まります。
ザクセン朝 オットー大帝
世界史の教科書にも出てくる、超有名人のオットー大帝から始めましょう。
彼は912年に生まれ、936年にまずは東フランク王国の王になります。(ザクセン朝第2代国王)
955年、マジャール人の侵入をレヒフェルトの戦いで撃退。
半世紀ほど悩まされていたマジャール人の侵入を撃退したことで、オットー1世(のちの大帝)は一躍有名になります。
キリスト教社会を異民族から守った功績で、962年ローマ教皇から帝冠を受けます。
フランク王国のカール大帝に授けられた冠は、最終的に東フランク王国が受け継ぐことになり、これが後の神聖ローマ皇帝と呼ばれるものとなっていくのです。
ちなみに、神聖ローマ皇帝と名乗れるのはローマ教皇から正式に戴冠をしてもらった者のみです。
この時点では神聖ローマ皇帝という名称はまだないのでそのようには呼ばないのですが、東フランク王国内全体に認めてもらうためには、ローマ教皇からの戴冠が必要だったのです。
戴冠を得ないままであれば、単なるドイツ王ということになります。
では、話を戻して今から始まる家系図を確認しておきましょう。
さて、このオットー大帝のあと、どうなっていくのでしょうか。
オットー大帝から始まる神聖ローマ皇帝は、ザクセン朝と呼ばれます。
皇帝位はオットー2世が継承しましたが、その息子のオットー3世は1002年に急死してオットー大帝の直系が断絶してしまいます。
そこで、1024年に帝位を継いだのはオットー大帝の弟であるハインリヒの孫、ハインリヒ2世に渡ります。
オットーやらハインリヒやら、同じ名前ばかりで混乱ですね・・・
家系図をみてスッキリさせましょう。
せっかく弟側の家系で繋げた皇帝位ですが、ハインリヒ2世は子の無いまま死去、こうしてザクセン朝は断絶してしまいます。
さて、次はどうなるのでしょう・・・?
ザーリア朝 コンラート2世
オットー大帝には娘がいました。
その娘の名は、リウトガルトです。
彼女はロートリンゲン大公のコンラートと結婚します。
そしてザクセン朝が断絶したいま、ハインリヒ2世の後を継いで皇帝に即位したのが、リウトガルトのひ孫であるコンラート2世です。
コンラート2世から始まる王朝を、ザーリア朝と呼びます。(ザリエル朝またはフランケン朝と表記されることもあります。)
ザーリア家は、フランケン地方出身の貴族の家系です。
ザーリア朝は結構わかりやすいんですよね。
なぜなら、皇帝位はすべて息子に代々継承されていくからです。
ところが4代目のハインリヒ5世は子がおらず、さらに39歳の若さで亡くなったため、男系相続が途絶えてザーリア朝は断絶してしまいます。
ハインリヒ5世は、姉のアグネスの子であるフリードリヒ2世に皇帝位を譲ろうしたら、ドイツ諸侯から反対されてしまいます。
最終的にザクセン公のロタール3世がローマ王に選出され、皇帝位を継承します。
ズップリンブルク朝 ロタール3世
ズップリンブルク家唯一の神聖ローマ皇帝であるロタール3世。
ズップリンブルク家ザクセン出身の貴族の家系です。
先ほどのオットー大帝もザクセン朝として紹介しましたが、このオットーの家系はリウドルフィング家であり、ズップリンブルク家と直接の関係はないようです。
この後、皇帝位はホーエンシュタウフェン家に移ります。
ロタール3世は娘婿であったハインリヒ10世に継承させたかったようですが、ハインリヒ10世はザクセン公でありバイエルン公でもありました。
領地が大きいため、他の諸侯から反感を受けます。
その結果、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世に皇帝位が移ることとなったのです。
ロタール3世はヴェルフェン朝でもまた登場します。
ホーエンシュタウフェン家 コンラート3世
1138年からホーエンシュタウフェン家が続きます。
途中1度中断してしまいますが、1254年まで続きます。
ややこしい・・・!
この中で、世界史の教科書に出てくる有名な人物としては、2代目フリードリヒ1世ですね。
バルバロッサの愛称で表記されることも。
彼は第3回十字軍遠征にも参加していますが、途中川で水浴びをしていたところ溺死したとか。
イタリア侵攻でローマ教皇とも随分喧嘩しました。
あとは孫にあたるフリードリヒ2世ですね。
「玉座の上の最初の近代人」と呼ばれる彼です。
ローマ教皇にしつこく命令され、第6回十字軍遠征をしぶしぶ行った人でもあります。
あまりに腰が重いため、ローマ教皇から破門を受けた状態で十字軍に出立しました。
イスラム教国側と話し合いで済ませたことでも有名です。
結局彼の息子の代でホーエンシュタウフェン朝は断絶してしまいます。
さてここで、5代目という表記が正しくない「オットー4世」がいるのがおわかりでしょうか。
皇帝位の順番がわかりやすいように「5」としましたが、正しくはホーエンシュタウフェン家の者ではありません。
彼はヴェルフェン朝の家系です。
ヴェルフェン朝 オットー4世
最後に彼の家系図をみて終わりにしましょう。
1代限りですが、オットー4世が神聖ローマ皇帝となっています。
そして遡っていくとロタール3世にたどり着きますね。
ロタール3世の娘の家系にいくので、彼自身はヴェルフェン家には関係ないのですが。
娘のゲルトルートはホーエンシュタウフェン家に繋がるハインリヒ2世と結婚してます。
こうみると、ヴェルフェン家もホーエンシュタウフェン家と繋がりは大いにありますよね。
途中、イギリス王家とも繋がっています。
オットー4世は最後はドイツ諸侯にそっぽ向かれ、ローマ教皇からも破門され、失意のうちに廃位します。
そして皇帝位を継承したのが、フリードリヒ2世となるのです。
家系図をみるとだいぶすっきり頭の整理ができますが、それにしても貴族の家系はいろんなところと繋がっていることがこれでわかりますよね・・・
ヨーロッパの家督相続の戦争が多く起こる理由がわかります。