キリスト教を初めて国教化したアルメニア

キリスト教を初めて「国教化」したのは、どこかご存知でしょうか?

学校でも習ったはずなのですが、意外と記憶に残っていないものですよね。

年代と出来事だけ紹介されて、サラっと通り過ぎたはずです。

そう、歴史上キリスト教を初めて国教化したのはアルメニアでした。

アルメニアってどこでしょうか。

地図で確認してみましょう。

現在のアルメニア国とまったく同じ土地ではないですが、アルメニアはカフカス山脈の南方にあります。

ここは古くは南方をメソポタミアが、東方はペルシアが、西方はアナトリアが、というように各地で大きな勢力が興亡してきました。

必然的にアルメニアの地は大国に翻弄されてしまいます。

そんなアルメニアがキリスト教を国教化するのは、4世紀に入った頃でした。

4世紀のアルメニア王国は、大国に挟まれて危険な場所でした。

その大国とは、ササン朝ペルシアとローマ帝国です。

両者から攻撃を受ける地であったのです。

アルメニア王国のキリスト教国教化は、そんな中で決断されます。

アルメニア王国ではササン朝ペルシアからの影響もありゾロアスター教を信仰する人も多かったようですが、キリスト教を選んだ理由はどこにあるのでしょうか。

301年、アルメニア王国はキリスト教を国教に指定しました。

ローマ帝国がキリスト教を公認するのは313年、国教化は392年です。

そう考えるといかに早くに国教化されたかがわかります。

周辺の大国に翻弄され、大きな圧力を受ける中で、アルメニア王国として集団の、共同の何かをアルメニア人でもつことの重要性に駆られたものだと考えられます。

いわば、アルメニア人としてのアイデンティティですね。

その手段が、キリスト教の国教化だったのでしょう。

アルメニア人はこれ以降、イェルサレム巡礼をさかんに行い、それが現代の「アルメニア人地区」に繋がっていきます。

早い時期からイェルサレム巡礼を行い、拠点をもっていたんです。

イェルサレムの旧市街には4つの区分があります。

  • ムスリム地区
  • キリスト教徒地区
  • ユダヤ教徒地区
  • アルメニア人地区

早い時期からとはいえ現代まで続いているということは、アルメニア人のキリスト教信仰の深さを示していますよね。

アルメニアはキリスト教ですが、アルメニア教会です。

当時、イエスの人性・神性を巡ってキリスト教世界は大きな議論を重ねていただのですが、結論、両性説をとるのが正統だと決定しました。

がしかし、アルメニア教会は「単性説」を採用しています。

ゆえに、異端です。

結果、キリスト教世界からはじかれることになります。

6世紀以降は東ローマ帝国から追放令が出て、アルメニア人は散り散りになり、さらにそのあとはイスラム勢力が拡大したことで故国アルメニアの地を離れる人も増えました。

その後、十字軍遠征やモンゴル軍の侵入でアルメニアは衰亡。

ようやく落ち着きを戻しかけた頃、東のイランにサファヴィー朝ができて西にはオスマン帝国も全盛期を迎えます。

またもやアルメニアの地は大国にはさまれ、戦場にまきこまれ、アルメニア人は虐殺や強制移住の対象となったのです。

さらに18世紀を迎えると北からロシアが干渉し、19世紀には南下してきます。

今度はオスマン帝国とロシアに挟まれてしまうのです。

第一次世界大戦後、アルメニアはグルジア、アゼルバイジャンと共に独立を果たしますが、1936年にソ連の構成国の1つに編入されました。

これが解かれて完全独立するには1991年まで待たなければなりません。

こうしてみてみると、アルメニア人は長い歴史の中で集合と離散を繰り返してきました。

実は現在、世界ではアルメニア人は760万いるうちの300万人ほどがアルメニアに住んでいます。

ということは、残りの460万人ほどは世界中に広がって住んでいることになります。

これ、ちょっとユダヤ人にも似ていますよね。

住んでいた場所を強制移住させられたり、虐殺の対象となったり。

ユダヤ人も世界中に離散しています。

異なるのは、「アルメニア」として独立ができたこと。

ユダヤ人は古代イスラエルの地から追い出されて、現イスラエルを建国するまで還る場所はありませんでした。

いまのイスラエルが国としてどうなのかという議論は別として、アルメニアとの違いはこの点にあると思います。

とはいえ、アルメニアも隣国問題は抱えています。

アゼルバイジャンの国内にナゴルノ・カラバフという地域がありますが、ここはアルメニア人が多く住んでいます。

ナゴルノ・カラバフ:アゼルバイジャン西武の山岳地帯に位置する地域。キリスト教アルメニア人とイスラム教トルコ系のアゼルバイジャン人が共に暮らしてきた。もともとはイラン領。1828年にロシア帝国に占領され、ロシア革命により1918年、アルメニアとアゼルバイジャンがそれぞれ独立。ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャン国内の地域に属したが、住民の多数派がアルメニア人。ここに帰属問題が残ることとなった。問題を抑えるためにソ連体制に入ったところでアゼルバイジャン内の自治州という位置づけになる。しかし住民の不満がおさまることはなく、アルメニアへ併合する動きはその後何度も起きることとなる。

ソ連末期にアルメニア系住民の分離独立運動が起こります。

やがてアルメニアとアゼルバイジャンの紛争になり、アルメニア支援の下、「アルツァフ共和国」として一方的に独立宣言。

1994年にナゴルノ・カラバフ紛争はロシアの支援もあってアルメニア側の勝利となりました。

ところが、ナゴルノ・カラバフはアルメニアの飛び地なんですね。

そのため、飛び地の間のラチン地域を含む場所までアルメニア人が入り込んでしまいました。

そこまで占領されると、アゼルバイジャンも黙ってはいられません。

だって領土の20%近くが占領されるんですよ?

それはおかしい、となりますよね。

結局この係争地は凍結したままです。

ゆえにアルファツ共和国を世界で承認しているのは数カ国のみです。

(ただ、アルファツ共和国は首都をステパナケルトとし、一院制の議会を持つ大統領制の国家まで作ってしまいました。)

そんなナゴルノ・カラバフですが、事態は2020年7月に動きました。

アゼルバイジャン西北部のトブズで衝突が発生。

これがいわゆる第二次ナゴルノ・カラバフ紛争です。

新型コロナウイルスで世界が揺れているときに起こった紛争です。

一般的な解釈としてはアゼルバイジャン側から仕掛けた紛争と言われています。

大国が干渉してこないことを見越しての行動だったと考えられており、また、アゼルバイジャンのバックにはトルコが支援についていたとされます。

6週間にわたる紛争でしたが、11月10日にロシアの仲介で停戦が成立。

停戦理由は色々ありますが、アゼルバイジャンが要衝のシュシャを陥落できたこと、一方でアゼルバイジャンは誤射でロシア軍ヘリを落としてしまったこと、これらが重なったようです。

この時点で、アルメニアが占領していた緩衝地帯とナゴルノ・カラバフの約4割をアゼルバイジャンに返還しました。

しかし、ナゴルノ・カラバフ自体の帰属問題は触れられませんでした。

そして2023年9月19日、ナゴルノ・カラバフ紛争がまたもや勃発しました。

アゼルバイジャンはナゴルノ・カラバフに対して対テロ作戦を開始したと発表。

これはナゴルノ・カラバフで地雷が爆発して市民が亡くなった原因が、アルメニア側のテロによるものだとしたからです。

ところが翌20日、アルメニア側はナゴルノ・カラバフの完全な武装解除などを受け入れて、停戦に合意しました。

ナゴルノ・カラバフを巡っては事実上、アルメニア側が敗北した形となりました。

結果、アルツァフ共和国の大統領はすべての行政機関を解散すると発表し、2024年1月に消滅したのです。

ナゴルノ・カラバフに住むアルメニア系住民のほとんどがその場を脱出するしかなかったのです。

なんと約12万人が避難民としてアルメニアなどに逃れることとなりました。

しかしこれで終わりとは到底思えません。

この先またいつアルメニアとアゼルバイジャンの間で紛争が勃発するのかわからない、非常に緊張した状態が続くことでしょう。

それは当事国同士のささいなきっかけからなのか、その後ろについている見えざる大国の動きなのか、我々は今後もこの問題に注目する必要があります。

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