フランス史★★★/エジプト史★
フランスのコンコルド広場といえば、有名な観光地ですよね。
ここはルーヴル美術館と凱旋門の間に位置しています。
コンコルド広場の西側はシャンゼリゼ通りに繋がり、その先に凱旋門が見えます。
東側はルーヴルのチュイルリー庭園が広がります。
目の前はセーヌ川が流れています。
ロケーションとしては最高です!
さて、そんなコンコルド広場ですが、昔はここ、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑場だったことはご存知でしょうか。
コンコルド広場にはオベリスクが建っていますが、これがエジプトより運ばれたことをご存知でしょうか。
今日はそんなコンコルド広場の歴史についてみていきましょう。
歴史を知って行けば、観光がもっと楽しく、特別な場所になるはずです!
国王広場だったコンコルド広場
コンコルド広場という名がが公式につけられたのは1830年です。
当初この広場はルイ15世によって「国王広場」として1775年に造られました。
当時はもちろん凱旋門もなく、このあたりはパリの町外れでした。
ここにルイ15世の彫像を置くために造られたのが国王広場であり、当時は「ルイ15世広場」と呼ばれました。
しかしその後、フランス革命が起きたことはあまりにも有名です。
1775年に完成した「ルイ15世広場」は、フランス革命が勃発した後、ルイ15世の彫像は別の像に置き換えられてしまうのです。
名前も「革命広場」に変わります。
恐怖政治の象徴だった革命広場
フランス革命の真っ只中では、この広場は処刑を行う場所でした。
ルイ16世もマリー・アントワネットもここで断頭台の露として消えました。
その後訪れたロベスピエールの恐怖政治時代にも多くの人が(少なくとも1,119人もの人が)ここで処刑されました。
結局ロベスピエール自身もこの広場で処刑されたのですが。
この悲しくも血なまぐさい歴史から、1795年頃からこの広場は「コンコルド(=和解)」と呼ばれるようになったと言われています。
ナポレオン時代から王政復古へ
フランス革命は1799年に終わりを迎えます。
そして時代はナポレオン帝政へ。
ところがナポレオン帝政も15年ほどしか続かず、その後はウィーン体制を迎えてブルボン王政が復古します。
このような変遷と共に、コンコルド広場をどのように変えていくべきか議論されます。
一時はルイ18世により、ルイ15世の新たな彫刻を造ることが提案されましたが、最終的にはルイ・フィリップの案が採用されます。
それは、エジプトよりオベリスクを譲り受けること、噴水をつくり、公式な名前もコンコルド広場にするということでした。
1830年に「コンコルド広場」が公式に名付けられ、オベリスクは1833年に建てられました。
噴水が完成した1840年に、現在私達が見ることのできるコンコルド広場が出来上がったのです。
広場には「川の噴水」と「海の噴水」という2つの大きな噴水があります。
北側が「川の噴水」で「Fontaine des Fleuves」と名付けられ、ローヌ川とライン川が表現されているようです。
南側は「海の噴水」で「Fontaine des Mers」と名付けられ、フランスの国土を囲む地中海や大西洋を表現してるそうです。
これらの噴水はローマ「サン・ピエトロ広場」にある噴水を模したといわれています。
ちなみに、冬は水が凍ってしまうため、噴水はストップされます。
オベリスクとは何か〜フランスとエジプトの交渉〜
コンコルド広場にそびえ立つ1本のモニュメント。
これは「オベリスク」と言われています。
よくみると、オベリスクにはヒエログリフが。
なぜフランスに古代エジプトのものがあるのか?
実はこれ、まさにエジプトから運ばれてきたものなんです。
オベリスク自体は、エジプトの古代テーベで造られ、その後エジプトのルクソール神殿の塔門前に2つが対になって建てられました。
オベリスクとは、太陽神ラーに捧げられた記念碑です。
ということは、3000年近く前に造られたものがフランスにあるということなんです。
エジプト、こんなのよく認めましたね・・・?
フランスに運び込まれた経緯としては、1829年、フランス政府がどうしてもオベリスクをフランスに運びたいと考え、ジャン・バプティスト・アポリネール・ルーバという海軍技官が1年かけて当時のエジプト副王ムハンマド・アリーに交渉をしました。
その結果、1831年に正式に交渉が確定し、1836年に運び込まれたのでした。
当時のフランス国王はルイ・フィリップ。
エジプトにはお返しに大きな時計が贈られたそうです。
ん???
3000年も前のものと時計なんて、あまりにも釣り合ってなくないか?と思うのは私だけでしょうか。
この時計はエジプトの首都カイロにあるムハンマド・アリモスクの中庭に面した時計塔にはめ込まれていて、いまもきちんと残っているそうです。
ちなみに、本当はオベリスク2本をフランスに持ち込む予定だったとか。
結局その後フランスとエジプトの関係が悪化したため、比較的保存状態のよかった1つだけが運び込まれて、もう1つの方は実現しなかったそうです。
当時はどんな交渉をしたんでしょうかね。
エジプトにとっても何かメリットがあったのならいいですが。
ところでこのオベリスク、先っちょが異様に黄金に輝いています。
この部分だけは、1998年につけられたものだそうです。
遠い昔に先にキャップがついていたようですが、紀元前6世紀にアッシリア人の侵入により盗まれたといわれています。
現代になり、より壮麗さを増すために、黄金色のものをつけたそうです。
賛否両論ありそうですが、これ自体はフランス政府が拠出した資金で行われたので、まぁいいのか。
時代がたてばこの黄金もまた、歴史となるのでしょう。
おわりに
コンコルド広場は2024年パリオリンピック・パラリンピックの競技場としても使用されました。
オリンピックではブレイキン、BMXフリースタイル、スケートボード、3✕3バスケの会場になっていましたね。
パラリンピックでは開会式をコンコルド広場で行う予定ですね。
コンコルド広場は「パリのセーヌ河岸」の構成遺産の1つとして、1991年世界文化遺産に登録されています。
ちなみに、エジプトのルクソール神殿も「古代都市テーベとその墓地遺跡」としてもちろん世界文化遺産登録がされています。(1979年)
今後もパリの名所として賑わいをみせることでしょう。
しかしその場所は、多くの犠牲と歴史のうえに築かれたものであることを知っている必要があります。
観光する際にはぜひ歴史的経緯も知って、楽しんでください!