ドイツ史★★★
日本人が学校で歴史を学ぶとき、ドイツの前身は「プロイセン」から繋がっているイメージがあるかもしれません。
実はドイツと日本の国家間交流は1861年にありました。
日本はこの年に、プロイセンと修好通商条約を結んでいます。
当時はまだ統一ドイツ帝国になる前ですが、プロイセンと単独で条約を結んでいることから、ドイツの前身=プロイセンというイメージになったのかもしれません。
ただ、プロイセンの始まりは神聖ローマ帝国領内の領邦ではありません。
プロイセンは、元々はポーランド王国内にありました。
そんなプロイセンがなぜドイツに繋がり、最終的にプロイセン主導の下ドイツ帝国が成立するのかをみていきましょう。
スペイン継承戦争でプロイセンが公国から王国になった!?
元々プロイセンはポーランド王国領内にある「公国」でした。
公国とは、国王から与えられた地位で、実質独立を認められてはいるものの国王には従事しています。
それが、スペイン継承戦争が起こった際に事態が変わりました。
この戦争は、フランス・ルイ14世と神聖ローマ帝国皇帝・レオポルト1世との戦いです。
レオポルト1世は1701年1月18日、神聖ローマ帝国領内のブランデンブルク辺境伯であるフリードリヒ3世を公爵から格上げして国王位を与えました。
実はフリードリヒ3世はルイ14世と親しくしていたようで、これを牽制する意味で国王位を与えたと言わてれます。
「格上げしてやるから、こっちの味方につけよ」ってことですね。
ちなみに170年後のまさに1月18日、ドイツ帝国が誕生しヴェルサイユ宮殿にてドイツ皇帝戴冠式が行われることとなります。
ブランデンブルク辺境伯がプロイセン王になった理由
ところでフリードリヒ3世て何者でしょうか。
彼はホーエンツォレルン家であり、ブランデンブルク選帝侯です。
選帝侯ということは、神聖ローマ帝国皇帝への投票権を持っている7つのうちの1つですね。
そしてブランデンブルクは辺境伯です。
辺境伯ということは他国と領地を接しているところ、つまり他からの侵入を防ぐ必要があり、強くないといけません。
神聖ローマ皇帝が一目を置くわけですね。
このブランデンブルク辺境伯を1415年に継承したのがホーエンツォレルン家でした。
それまではヴィッテルスバッハ家やルクセンブルク家が継承していました。
ホーエンツォレルン家がこのままドイツ帝国まで続きます。
そんなブランデンブルク辺境伯が後にプロイセンと一緒になるのはなぜでしょう。
1618年、ブランデンブルク選帝侯ヨハン=ジギスムントがプロイセン公国の公位を兼ねることとなり、飛び地ではあるものの同君連合となりました。
なぜ公位を兼ねることになったかというと、プロイセン公国がホーエンツォレルン家の親戚だったからです。
プロイセン公国は元々はドイツ騎士団だった!?
ところで、プロイセン公国が公国になる前はどうなっていたんでしょうか。
実は元々はドイツ騎士団から始まっています。
宗教改革が起こった際、このドイツ騎士団はルター派となりました。
その時の騎士団長がホーエンツォレルン家出身の者でした。
ドイツ騎士団とポーランド王国は仲が悪く何度も戦争をしていましたが、ついにドイツ騎士団側が屈し、ポーランド王の下に臣下になることを誓いました。
こうして、1525年にポーランド王からドイツ騎士団領の地をプロイセン公国として与えられたのです。
正式にはプロイセンの地の東側を、プロイセン公国として与えられました。
ドイツ騎士団は元々宗教騎士団だったから、本来はローマ教皇の下、カトリックのはずです。それが、宗教改革の時代にあたり、団長がルター派に改宗したわけで「ドイツ騎士団」として意義がもうなくなったわけだね。
さて、そんなプロイセンが王国になる日がやってきます。
冒頭で説明した、1701年1月18日です。
しかし疑問が1つあります。
ブランデンブルク=プロイセン連合です。
そしてブランデンブルク辺境伯は神聖ローマ帝国内の領地です。
帝国内に皇帝は1人で、それ以外に「国王」や「王様」がいるとおかしくなります。
それが、国王位を与えるというのはどういう意味なのでしょうか。
実は、神聖ローマ帝国領内では「国王」にはなれません。
でも領外であれば国王になることは認められていたのです。
つまり、プロイセン王国はポーランドにあるわけなので、プロイセンは王国に昇格できホーエンツォレルン家フリードリヒ3世はプロイセン王国フリードリヒ1世になったというわけです。
先程伝えた通り、ポーランド王国領のプロイセンのうち、東プロイセンが対象です。
西プロイセンはポーランドのものなので、ホーエンツォレルン家の支配地域は西プロイセンを挟んで飛び地なのです。
そのためプロイセン王国に昇格した際に名乗ったのは「プロイセン王」ではなく「プロイセンにおける王」でした。
「プロイセン王」になるには1772年まで待たなければなりませんが、ここは後ほどお伝えすることとしましょう。
とりあえず、次のプロイセンにおける王はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世で、その後は息子であるかの有名なフリードリヒ2世、つまり、フリードリヒ大王が王になるのです。
このフリードリヒ2世がプロイセンをヨーロッパの大国に押し上げました。
いつしかブランデンブルクの名前はプロイセンに変わります。
神聖ローマ帝国が正式に解体された1806年に選帝侯位も廃され、プロイセン王国領ブランデンブルク州となりました。
ちなみに「プロイセン」はポーランドの呼び方です。
これをあえて残したのは、神聖ローマ帝国内でドイツ風の名前で王を名乗ると目立つので、プロイセンのままにしたと言われています。
ここでフリードリヒ2世がハプスブルク家オーストリア軍と戦った戦争について紹介しておきます。
オーストリア継承戦争(1740年~1748年)
オーストリア君主であり、神聖ローマ帝国皇帝のカール6世。
ところが彼の子(長男)は幼くして亡くなってしましました。
その後生まれてくる子は女の子ばかり。
男子しか継承権がないルールとなっているのでカール6世はどうしようか考えます。
その結果、「ルールをちょっと変えてしまえ!」となり、女子にも王位を継承できるよう法令を変えてしまいます。
カール6世は周りの領邦に手回しをし、同意を取り付けることに奔走していました。
そして亡くなった後に戦争が勃発します。
というのも、相続権は長女であるマリア・テレジアに移ったのですが、実はカール6世は兄ヨーゼフ1世が亡くなったので皇帝位がまわってきました。
ヨーゼフ1世には継承できる男の子がいないから、弟にまわったということです。
つまり、兄には女の子はいました。
法令で女子に継承できるのであれば兄の子が優先されるのでは?となり、兄の子である娘の婿が主張していたのです。
それがバイエルン公やザクセン公です。
一方、フリードリヒ2世のプロイセン王国はマリア・テレジアへの継承権は認めてやるかわりにシュレジエンを寄こせと主張しました。
ということは、目的は別でもオーストリアハプスブルク家に戦争を挑むのはプロイセン王国、バイエルン公国、ザクセン公国です。
オーストリアとの永遠のライバルフランスはもちろんプロイセン王国側につきます。
そうなると、フランスの力を削ぎたいイギリスは必然的にオーストリア側につきます。
プロイセン王国の勢力拡大を抑えたいと考えるロシアも、オーストリア側について参戦。
こうして各自の思惑が交錯し、戦争が起こりました。
オーストリア・イギリス・ロシア V.S プロイセン王国・フランス・ドイツ諸侯
この戦争では、プロイセン軍が勝利し、オーストリアからシュレジエンを奪い取ることに成功しました。
実はこの間、神聖ローマ皇帝位は一時バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世に移っています。
1437年にハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を継承してから、唯一の非ハプスブルク系の皇帝として歴史に名を刻みました。
とはいえ皇帝になっていた期間は1742年~45年の3年だけですが。
あと余談ですが、マリア・テレジアの夫候補としてフリードリヒ2世の名もあがっていたようです。
結局恋仲だったハプスブルク家の血を引くフランツと結婚し、フランツが皇帝になりマリア・テレジアはあくまで女帝として君臨しました。
マリア・テレジアは16人も子供を産んだのですが、恋仲だっただけあって夫婦仲は良かったんだなと納得です。
ちなみにフリードリヒ2世は同性愛者だったようで子はいませんでした。
さて、オーストリア継承戦争ではマリア・テレジアは夫が皇帝位を継承し、ハプスブルク家の相続自体は自身がすることで1件落着したものの、戦争自体はシュレジエンが奪われ納得のいかないものとなりました。
シュレジエンは工業地帯だったためオーストラリアにとってもここは大事な土地でした。
この恨みが次の戦争、七年戦争に繋がります。
七年戦争(1756年~1763年)
さて、マリア・テレジアの復讐戦が始まります。
彼女は行政改革を推進し、国力を高めて準備しました。
また、外交にも力を入れます。
これまで常にライバル関係にあったフランスと手を組んだのです。
当時フランスはルイ15世の公式の愛妾としてポンパドール夫人が権勢をふるっていました。
そんな彼女と、ロシアの女帝エリザヴェータとも手を結び、味方につけたのです。
オーストリアとフランスが手を結んだこの出来事は後に「外交革命」と言われるようになります。
ロシアの女帝エリザヴェータは単にプロイセンのフリードリヒ2世が嫌いだったようです。
さてこの万全な状態でオーストリアはプロイセンへ復讐戦を挑みました。
オーストリア・フランス・ロシア・スウェーデンなど V.S プロイセン王国・イギリス
オーストラリア継承戦争とはがらりと変わって、対立関係はこのようになりました。
イギリスはフランスと反対側につくのが常なのでプロイセン王国側になっていますが、基本的に参戦していません。
お金だけ援助するような形です。
ということは、実質プロイセン王国1国でその他大国を相手にすることとなったのです。
これにはさすがの大王でも苦戦を強いられます。
最初はプロイセン軍も奮闘し、勝利を重ねる場面もありましたが、戦争が長期化するにつれてだんだん追い込まれます。
フリードリヒ2世は死を覚悟したと後日語っているほどです。
本当に、あと1週間遅かったらプロイセン王国の敗北となっていただろう時に奇跡が起きました。
ロシアの女帝エリザヴェータが亡くなり、甥のピョートル3世が王になりました。
このピョートル3世が、フリードリヒ2世の大ファンだったのです。
それも熱狂的な。
大好きなフリードリヒ2世と戦うなんて彼にはありえないわけです。
ロシア軍はこの戦争が離脱し、軍を引き上げました。
これがプロイセン王国の救いとなりました。
結局、七年戦争の講和条約であらためてシュレジエンはプロイセン王国の所有となることが確認され、オーストラリアはこれをのむしかできなかったのです。
プロイセン王国の勝利、オーストラリアの敗北が決定しました。
この後、オーストラリアはフランスと姻戚関係を結ぶことで友好関係は継続します。
具体的には、マリア・テレジアの末娘マリーアントワネットをフランス・ルイ16世に嫁がせるという形で実現します。
一方フランスは、ルイ14世の頃から続く戦費、イギリスとの植民地争いによる疲弊、財政難が続いてすべてのしわ寄せがルイ16世の時代にフランス革命という形に繫がっていくこととなります。
そしてプロイセン王国はシュレジエン獲得後はさらに力をつけていき、ナポレオン戦争を挟みながらも最終的にプロイセン王国主導のもと、ドイツ帝国統一へ向かっていくのです。
後日談ですが、プロイセンとロシアの関係について。
フリードリヒ2世崇拝者ピョートル3世は早々にクーデターを起こされて彼の妻であるエカチェリーナがエカチェリーナ2世として即位しました。
そんな彼女はフリードリヒ2世と共謀してポーランド分割に取り掛かりました。
1763年のことです。
これにオーストリアのマリア・テレジアも便乗しました。
結果この3国でポーランドに攻め込み、分割してしまいます。
分割は1772年に始まり、1795年、ポーランドはここで1度、完全に地図上から消えてしまいます。(以降123年ポーランドの名は出てきません。)
プロイセンが1772年に獲得した地域により、神聖ローマ帝国領とプロイセンの間にあった飛び地(ポーランド王国領で西プロイセンと呼ばれていた)とようやくつながることとなったのです。
参考図書
ドイツ史(上)(下):編者 木村靖二 発行所 株式会社山川出版社
嘘だらけの日独近現代史:著者 倉山満 発行所 株式会社扶桑社
「ヨーロッパ王室」から見た世界史:著書 内藤博文 発行所 株式会社青春出版社
戦争超全史:著書 東大カルペディエム 発行所 ダイヤモンド社