ロシアの歴史とキエフの関係とは?

ロシアの起源って一体どこなんでしょう?

ヨーロッパの一部のように思われがちですが、そのルーツや歴史は実はヨーロッパとは一線を画します。

もくじ

キエフ・ルーシ公国のはじまり

元々ロシアが生まれる一帯にはスラヴ人が住んでいました。

スラヴ人の中でも東スラヴ人が、現在のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の先祖といわれています。

これからロシアの話をしていくうえでポイントとなってくるのは、キエフ・ルーシ公国です。

そのキエフ・ルーシ公国ができるまでの歴史をみてみましょう。

キエフの地のはじまり

まず東スラヴ人の中でキエフ周辺に住んでいたのはポリャーネ氏族でした。

有名な三兄弟と妹の名が歴史に残っています。

三兄弟は、キー、シチェク、ホリフ、妹はルイベジという名でした。

この三兄弟の長男、キーの名前を由来としてキエフが生まれます。

キーはビザンツ帝国との交流もあったようです。

時代は6世紀後半頃のようで、今でもキエフ市のドニエプル川沿いの公園に、この三兄弟と妹の像が立っています。

さて、キエフはその後交易の拠点として発展していきます。

交易発展に貢献した民族として、遊牧民のハザール人とヴァリャーク人(=ヴァイキング)が登場します。

イメージとしては、ハザール人がキエフ・ルーシ公国の土台を作り、ヴァリャーク人がキエフ・ルーシ公国を作った、という感じです。

ノヴゴロド地域のはじまり

このノヴゴロド地域にいた東スラヴ人は、勢いづくヴァリャーク人たちに貢ぎ物を納めてなんとか穏便に済ませていました。

彼らは自治も自分たちで行ってはいたものの、次第に内紛が起きます。

収まりつかなくなった彼らは、ヴァリャーク人たちに「なんとかしてこの地を治めてくれ」と要請したのです。

自治は崩壊、その要請に応えるかのように、ヴァリャーク人がやってきます。

そのヴァリャーク人がリューリクという人物で、彼はルス族の首長でした。

862年、一族を引き連れてノヴゴロド公国を建国しました。

リューリク王朝の始まりです。

ちなみにこのときの「ルス」族が後々の「ロシア」の名の起源になったと言われています。

さて、リューリクの家臣がビザンツ帝国のコンスタンティノープルへ向かう途中に見つけたのがキエフでした。

キー三兄弟が作った町ですが、今ではハザール・ハン国に貢ぎ物を献上しているようで、リューリクの家臣たちはこのキエフの町をそのまま乗っ取りました。

リューリクの息子イホルが次のノヴゴロド公になるのですが、まだ幼かったため一族のオレフが後見となり力をつけていきます。

オレフは、キエフ公になり、ハザール・ハン国の貢納をやめ、ビザンツ皇帝と条約を結び、都をノヴゴロドからキエフに移したのです。

なんたる行動力。

これにより、ノヴゴロドからキエフに至る広大な地を支配することとなり、これがキエフ・ルーシ公国の始まりとなったのです。

キリスト教の国教化

リューリクの息子イホルの妻となったオリハがキリスト教に関心をもち、957年にコンスタンティノープルにて洗礼を受けます。

キエフ・ルーシ公国自体がキリスト教化するのはもう少し先ですが、オリハはその先駆けとなりました。

国家としての規模が大きくなり、求心力を高めるためには宗教の力が必要と考えられるようになります。

宗教の中でも一神教を取り入れたのは、君主の絶対性を正当化するのに使いやすかったからだといわれています。

こうしてキリスト教がキエフ・ルーシ公国の国教となりました。

モンゴル人襲来 キプチャク・ハンの統治

さて、キエフ・ルーシ公国は相続によるごたごたや、その他諸国の分離・独立により徐々に力を無くしていきます。

そんなときに大きな出来事が起こります。

そう、モンゴル人の襲来です。

1223年、キエフ・ルーシ公国にモンゴル軍がやってきます。

結果は大敗。

チンギス・ハンの孫のバトゥがトドメをさしにやってきました。

1240年、キエフを包囲し、陥落。

キエフ・ルーシ公国は終わりを告げました。

この後は、キプチャク・ハン国の時代になります。(1243年~1502年)

これが有名な「タタールのくびき」といわれるものです。

モスクワ大公国

次に時代が動くのは約200年後です。

モンゴル帝国支配のもと、力をつけてきたのはモスクワ大公という貴族でした。

のちのロシア帝国となるモスクワ大公国のはじまりです。

はじめはモスクワ周辺だけを治める小さな国でしたが、長年のモンゴル支配が原因なのか、騎馬戦法に長け、戦争に強い国でした。

一方、キエフ周辺はその後ポーランド領に入り、ポーランドからの支配を受けます。

キエフからウクライナになる歴史はまた後日するとして、結果的にポーランド支配から独立するにあたって頼った相手がモスクワ大公国でした。

まぁすぐ裏切られるのですが、この時にモスクワはウクライナを支配下に治めたと認識しています。

これはロシア帝国にも引き継がれていきます。

東ローマ帝国の継承者、イヴァン3世の登場

1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)がオスマン帝国に滅ぼされました。

当時のモスクワ大公はイヴァン3世でした。

最後のビザンツ帝国皇帝コンスタンティノス11世の姪であるソフィアを妻に迎えます。

こうしてビザンツ皇帝家と血縁関係を結ぶことで、イヴァン3世は東ローマ帝国の継承者であると自負します。

イヴァン3世は自信を「皇帝(=ツアーリ)」と名乗り、モンゴル人たちを追い出すことに成功。

完全に独立を勝ち取ったのです。

ロシア帝国の誕生

イヴァン3世の孫である、イヴァン4世の時代(16世紀)にロシアは誕生します。

イヴァン4世は「雷帝」と呼ばれ、独裁的な恐怖政治を実行して大変恐れられていました。

彼は領土拡大の基礎を作り、モスクワ大公国を改め、ロシア・ツアーリ国(事実上のロシア帝国)を宣言しました。

独裁的な恐怖政治を強いた理由は、ロシアの地が多民族の集まりであること、部族社会を形成してたがゆえに力尽くで抑える強さがないとまとめることができない、といった点が挙げられます。

また、モウスクワ大公国およびロシア帝国はキリスト教の中でも正教会を採用しています。

正教会は皇帝と教皇のように政教分離の制度にはなっていません。

皇帝が正教会の人事権も握ります。

政治権力が宗教と一致しているので、「皇帝に逆らう=神への反逆」と見なされてしまいます。

ゆえに、独裁政治になりやすいシステムがここにもあるのです。

ロマノフ朝の誕生

イヴァン4世の死後、しばらく跡継ぎ争いにより皇帝位の空位が生じます。

これに終止符を打ったのが、ロマノフ家のミハイル・ロマノフでした。

ロマノフ家はノヴゴロド公国の系譜を引く貴族でした。

以降、ロマノフ朝は17代(1613年~1917年)続き、ロシア革命と共に幕を閉じます。

そんなロマノフ朝ですが、ロシア帝国が力をつけていく中で、問題にぶつかります。

それは、海の出口をもっていなかったこと。

モスクワ含め、主要地はすべて内地でした。

そこで18世紀に活躍したピョートル1世の時代にバルト海へ進出します。

既にバルト海を制覇していたのはスウェーデンでした。

必然的にスウェーデンと戦うことになります。

これが教科書にも出てくる北方戦争です。

ピョートル1世はこの戦争に勝利し、バルト海方面への領土拡大に成功します。

さらにその後、エカチェリーナ2世の時代には南下政策をとり、黒海方面へと向かいオスマン帝国と戦います。

ここでクリミア半島を獲得するのです。

ロシア帝国の勢いは止まりません。

19世紀以降、ニコライ1世からアレクサンドル3世の時代に、ロシアは中東イランや中央アジア、満州や極東方面にまで領土を広げます。

ちなみに、プーチン大統領はアレクサンドル3世を敬愛しています。

2014年にクリミア併合をした際、その地にアレクサンドル3世の像まで立てています。

台座には、「ロシアには友人はいない。2人の同盟者だけがおり、それはロシアの陸軍と海軍である」と書かれています。

これはアレクサンドル3世の言葉だそうです。

ロシアとウクライナ

最後に、ロシアとウクライナについてですが、この両者の歴史は非常に複雑な関係です。

兄弟として生まれ育ったものの、幼いうちに生き別れた、といったような関係です。

ウクライナ自身がモンゴル軍の支配下に置かれたのち、ポーランド・リトアニアやロシアに翻弄され、タタールやスウェーデンとの関わりの中でうまくいかず、結果として力をもったロシアと共に生きていくこととなっていまいます。

ウクライナの中でも一枚岩ではありません。

上記のことから、ドニエプル川を挟んで新ロシア派が多くなるのも理由があります。

このあたりの話はまたウクライナの歴史の方で話せたらと思います。

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