メディチ家とフランス:クレメンス7世とカトリーヌ・ド・メディシス

メディチ家はローマ教皇にも選出されたことのある、イタリアフィレンツェの富豪です。

薬(medicine)の語源ともいわれているメディチ家。

もとは薬問屋か医師ではないかと言われていますがその真相は定かではありません。

ただ、その後銀行家として大富豪になり、政治家活動もしていたことは確かです。

そんなメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシス、彼女がフランスヴァロワ家のアンリ2世に嫁いだ歴史的背景を簡単にみていきましょう。

もくじ

荒らされるイタリア半島

イタリア半島はローマ帝国のイメージが強く、昔からさもイタリアがあったかのように錯覚してしまいます。

ところが、イタリアという名の国ができるのは意外にも1848年と最近です。(イタリア王国)

ではそれまでどうなっていたかというと、都市国家の寄せ集めでした。

つまりイタリア半島は統一されておらず、教皇領、ナポリ王国、トスカーナ大公国等、それぞれが独立していました。

これに目をつけて領土拡大の野心を抱いたのが、フランス王と神聖ローマ皇帝です。

野放しになっているイタリア半島を手に入れようと躍起になります。

フランスヴァロワ家と神聖ローマ皇帝カール5世の対立が激化します。

もちろん戦場はイタリア半島なので、イタリアの土地が荒らされました。

当時のローマ教皇はクレメンス7世。

彼はメディチ家出身の教皇です。

ローマ教皇は教皇領を守るのに必死で、攻めてきたカール5世をなんとかしようと、フランスとイギリスにハプスブルク家討伐を裏で言い渡します。

フランスとの癒着

ところがこの内通が、カール5世にバレてしまうんです。

激怒したカール5世は、ローマ教皇を捉えて屈服させます。

これが歴史ではローマ劫略といわれる出来事です。(1527年)

カール5世と戦っていたフランス王フランソワ1世もやられます。

なんとか捕虜状態から脱したフランソワ1世とクレメンス7世。

教皇はこのあともフランス王に頼ろうと、すり寄っていきます。

そこで取られた政策が、メディチ家の娘カトリーヌを、フランソワ1世の子アンリ2世の妃へ送り出すことでした。

カール5世への遠慮がイギリス国教会誕生の引き金になった!?

結局、フランソワ1世の死をもってフランス王はイタリア遠征を断念します。

カール5世がイタリア半島の多くの部分を領地に入れます。

1559年、フランス王と神聖ローマ皇帝との間に、イタリア戦争の終止符としてカトーカンブレジ条約が結ばれました。

さて、そんな中、イギリスで事件が起きます。

イングランド王ヘンリ8世が離婚したいと言い出したのです。

ヘンリ8世の妃はスペイン王女キャサリンです。

キャサリンはカール5世の叔母です。

当時、カトリックでは離婚するのにローマ教皇の許可が必要でした。

ヘンリ8世もローマ教皇に願い出ます。

ところがクレメンス7世、これに許可を出すことができません。

なぜか。

ここで離縁を認めたら、甥であるカール5世が激怒するのでは・・・!?

すでにローマ劫略でめためたにされていたクレメンス7世。

カール5世に恐れおののき、完全に遠慮しています。

ヘンリ8世に離縁承諾を言いあぐねいているうちに、ヘンリ8世はカトリックから離脱を宣言。

イギリス国教会を宣言するのです。

メディチ家の栄光

さて、フランスでではようやく宗教による内戦が落ち着く局面に入っていきます。

ナヴァル王アンリ4世がフランス王に即位し、カトリックに改宗。

そしてアンリ4世の再婚相手にはメディチ家出身のマリ・ド・メディシスが選ばれます。

彼女との間に生まれたのがルイ13世です。

ブルボン家はこの後フランスでルイ16世まで王家が続き、一方でスペイン継承戦争でルイ14世の子孫がスペイン王を引き継ぐので今に至るまでスペイン王家はブルボン家が続くこととなるのです。

メディチ家はカトリーヌ・ド・メディシス〜マリ・ド・メディシスあたりに栄光期を迎え、その後静かに衰退していきます。

ちなみに、フランス絶対王政を実現に貢献した宰相リシュリューは、マリ・ド・メディシスが人材登用した人物です。

マリ・ド・メディシスはルイ13世が大人になるまで実権を握っていましたが、彼が成長するにつれて親子仲は悪くなっていきます。

最終的にルイ13世が母親を嫌って対立するのですが、それをうまく仲裁したのはリシュリューで、その後リシュリューはルイ13世に能力をかわれ、宰相の地位にまで任命されたのです。

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