【まとめ】ニケーア公会議から始まる主な公会議

世界史の授業でもよく出てくる「公会議」。

第一回公会議は325年に開催され、現在に至るまで21回行われています。

その中でも主要な公会議(世界史教科書に出てくる公会議)についてここでまとめていきたいと思います。

もくじ

そもそも「公会議」とはなにか?

公会議とは、キリスト教(カトリック)世界全体の会議を指します。

高位聖職者が集まり、教会の教義や規則などの重要事項について話し合う最高会議です。

1〜7回目まではローマ皇帝が呼びかけて開催されました。

8回目からはローマ教皇が主催して行われています。

「公会議」とよく似た位置づけに「宗教会議」「教会会議」というのもあります。

こちらは教義の決定などの重要案件までは及ばないもの、と思ってください。

そのため公会議よりも規模は小さくなります。

それでは、ピックアップしてみていきましょう。

第一回 ニケーア公会議

コンスタンティヌス帝が招集した、記念すべき第一回公会議です。

ここでは何が話し合われたのでしょうか?

まず、325年という年はローマ時代の中でどんな時だったのか。

313年にキリスト教がローマ帝国で公認されてすぐですね。

392年の国教化までには至っていませんが、皇帝が招集して決めたかったのはなんだったのでしょう。

答えは、「正統教義」を決めることでした。

当時のキリスト教はいくつか宗派が分かれていました。

その中で、アタナシウス派を正統教義として認めたのがこの公会議でした。

アタナシウス派:神とイエスを同質とし、イエス・キリストは神性と人性の両方をもつ両性論を主張

同時に、イエスの人性を強調したアリウス派を異端認定します。

アリウス派:イエス・キリストは神聖な存在だが神の被造物という人性を主張

正統教義じゃないのでアリウス派はキリスト教じゃない=異端だと決定したのです。

とはいうものの、「はいそうですか」とすぐに終わるのなら争いは起きません。

こののち、何度も同じ論争が繰り広げられます。

結局アリウス派は追放され、後にゲルマン社会への布教に向かうこととなります。

さて、そんな中新たな問題が発生します。

聖霊

この言葉が問題となってくるのです。

第二回 コンスタンティノープル公会議

381年にテオドシウス1世が開催した公会議です。

聖書には、聖霊が「イエス・キリストが地上を去った後に、罪や死から人々を救い、信者の心の平和を与えるのは聖霊という形で信者の心に宿るイエス・キリストである」と説明されています。

????

「心に宿るイエス・キリストである」ということは、聖霊も神性であることにならないか?

「父なる子」「子なるイエス」「聖霊」すべてが神性となると、そもそも一神教ってなんだっけ?

唯一神はどれを拝めばいい?となるわけです。

これは世の中を混乱に落としかねない事態です。

三位一体説:すべて完全な神であるが、それぞれ別個の神ではなく、存在するのは一つの神である

いよいよ我々にはなんのこっちゃの話ですが、つまり「父なる神=子なるイエス=聖霊」姿形は違えど同じ1つの神なんだよってことです。(ものすごく簡単に言うと、です。)

なぜか信者にはこれが受け入れられたようですね。

三位一体説が正統教義として確立されました。

さぁ、では、イエスの母であるマリアはどうなるのか問題がこれから勃発します。

神であるイエスを生んだのであれば、マリアは神の母となるのか・・・?

第三回 エフィソス公会議

さて、第三回は431年にエフィソスで開催されました。

ここでは、ネストリウス派を異端と認定します。

ネストリウス派∶イエス・キリストははじめは人性、後に神性となるという両性論を主張

一見、正統派のアタナシウス派と同じ両性論を唱えているかのように思えますが、アタナシウス派ははじめからイエス・キリストは人性と神性を持ち合わせているという点で異なるのです。

しかも、ネストリウス派のようにイエス・キリストがはじめは人性だとすると、マリアは人の子を産んだこととなってしまいます。

それだと都合が悪いわけです。

聖母マリアを「神の母」ではなく「イエスの母」と呼ぶネストリウス派は異端認定されてしまいました。

ネストリウス派はマリア崇拝をせず「イエスの母」という位置づけにしたので、神でもあるイエスを遠回しに否定するような考えになりかねないからでしょう。

エフィソス公会議では、「イエス・キリストは真の神であり、真の人間であること、そしてキリストが人類の救いのために神の母マリアから生まれた」ことが宣言されたのです。

結局ネストリウス派は追放されて東方布教へ向かいます。

東方、まずはササン朝ペルシアへ布教され、さらに東の中国へも伝わり、実は日本にも伝わってきました。

中国や日本では「景教」と呼ばれました。

つまり、キリスト教ネストリウス派は600年代頃には中国に伝わり、日本にも持ち込まれたと考えられています。

そういった意味では「1549年にキリスト教が日本に伝わる」と習いましたがもっと昔に宗派の異なるキリスト教に、日本は触れていたということになりますよね。

第四回 カルケドン公会議

異端認定はまだ終わりません。

451年に開催されたカルケドン公会議では、単性論を唱える宗派を異端認定します。

単性論:イエス・キリストの人格は、人性が神性に取り入れられて単一の性を有するという考え。

ちょっとややこしいのですが、つまりはイエス・キリストははじめから神性である単性論を唱えているのです。

神性の中に人性が含まれてる、的な感じですね。

正統派のアタナシウス派は、イエス・キリストは神性と人性という2つの本性を持ち合わせている両性論なので、やはりこの単性論は否定されました。

その結果、単性論宗派の考えはエジプトへ流れていき、コプト教会などへ繋がっていきました。

第七回 ニケーア公会議(2回目)

787年、ビザンツ皇帝コンスタンティヌス4世が招集した会議です。

ここでは聖像禁止令を否定し、イコン崇敬を認めます。

聖像禁止令∶726年に聖像崇拝を禁止する発令が出され、これにより聖像破壊運動(イコノクラスム)が行われるようになった

これはどうみても反発が大きくなりそうですよね。

元々一神教はキリスト教も含め、偶像崇拝はダメです。

でもさ、いま急にそんなこと言う??

もうキリスト教ができて何百年と経っていますし、少なくともローマ帝国で公認されてからでも450年ほど経っているわけです。

特にローマ教皇側は聖像禁止令が発令されたときはひどく反発しました。

カトリック教会としては、キリスト教をラテン語を話せないゲルマン人たちに布教するためには、聖像物や聖像画が必須だったわけです。

もちろん、東方正教会側も聖像禁止令に反対した人々は多かったようです。

この禁止令を出したビザンツ皇帝レオン3世がなぜこれをしたのかははっきりとわかりませんが、当時イスラム勢力が力をつけてきて、彼らから偶像崇拝をするキリスト教を激しく非難された、ですとか、この発令に反対して認めない教会の領地や領民を没収するためだとか、理由は色々あったようです。

結局このニケーア公会議で、聖像破壊運動は異端とされ(まさかの異端!)、聖像崇拝はそのものを拝んでるのではなく、その像や絵に神的な思いを馳せているにすぎない、ということになったのです。

聖像崇拝じゃないよ、聖像「崇敬」だよってことで決着がつくんですね。(言い回しひとつですね・・・)

そしてこの第7回をもって皇帝が招集する公会議は終わります。

第8回(868年〜870年:コンスタンティノポリス公会議)は東西両教会が参加した最後の公会議でした。

東方正教会は第7回までは普遍的公会議であることは認めていますが、以降は認めていません。

聖像禁止令は東西対立のきっかけになったもののニケーア公会議で一応解決しました。

ところがその後も両教会はスラヴ人やブルガリアの布教を巡っても対立し続け、ついに1054年、互いに破門したことで収拾不能となりました。

ちなみに、カトリック教会には「聖像」はありますが、東方正教会にあるのはせいぜい立体画のような「聖画」のみです。

東方正教会側の十戒には「像を刻むな」と定められているが、カトリック教会の十戒はアウグスティヌスの十戒を基にしているのでその言葉は書かれていなことが両者の違いのようです。

頭が混乱してきましたね。

この話はここらでやめておきましょう・・・。

☆クレルモン宗教会議☆

公会議ではありませんが、教科書にも登場する有名な宗教会議なので載せておきます。

1095年にクレルモンで開かれた教会会議で、呼びかけは教皇ウルバヌス2世でした。

この教会会議は、十字軍遠征宣言をしたことで有名です。

第十六回 コンスタンツ公会議

さて、かなり飛びますが次に教科書に登場する有名な公会議は、1414年〜18年にかけて開催されたコンスタンツ公会議です。

前回のクレルモンもそうですが、東西教会分裂後、公会議開催地は西ヨーロッパで行われていることがこれでわかります。

コンスタンツ会議はルクセンブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントが招集した公会議でした。

教皇が招集していない理由は、これが教会大分裂を収拾するために開かれた公会議だったからです。

ここではさらに、公会議至上主義を打ち出します。

つまり、ローマ・カトリック教会の最高権威は教皇ではなく公会議だ!と。

今後は定期的な開催をしましょうとうたいます。

ちなみにこの公会議ではウィクリフとフスを異端認定した公会議でも有名です。

そう、ここから宗教改革の時代に入っていくのです。

第十九回 トリエント公会議

1545年に開催された公会議です。

宗教改革の時代、カトリック教会を再建すべく開かれた公会議でした。

ここから1563年にかけて、対抗宗教改革が始まっていきます。

要請したのは神聖ローマ帝国皇帝カール5世で、それに従い教皇パウルス3世が招集しました。

宗教改革を乗り切るためにローマ教皇を中心にカトリックは結束が強くなり、そういったこともあり、その後は定期的な公会議が開催されることがなくなりました。

では次の公会議はいつ訪れるのか・・・?

第二十回 ヴァチカン公会議

さて、かなり間が空いた後にヴァチカンで開催されました。

300年ぶりくらいの開催ですね。

どうやら、前回のトリエント公会議あたりは宗教改革があったため、その後はローマ教皇を中心にカトリックが結束していたのが要因としてあげられます。

公会議を開催するまでもなく、目的ややるべきことが明確だったのでしょう。

さて、そんな眠りから覚めたかのように開催された久々の公会議ですが、中身は「教皇不謬性(きょうこうふびゅうせい)」の宣言です。

教皇不謬性:ローマ教皇が信仰および道徳に関する事柄について教皇が宣言するものは、聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤り得ない、とする教義。

とんでもないな!笑

と、思うかもしれませんが、ローマ教皇が発する言葉がなんでもそうなる、というわけではなく、「教会が長きにわたって伝統として教えてきたこと」や「教皇座から厳かに宣言された」信仰に関する事柄のみに限定しています。

ローマ教皇の独断と偏見で宣言されるものが対象となるわけではないことは認識しておきましょう。

ローマ教皇が公式の手順を踏んで、全世界のローマ・カトリック教会に対した宣言でなければその対象となりえません。

さて、次が最後の公会議です。

第二十一回 ヴァチカン公会議(2回目)

1962年〜65年に開催されました。

これを最後に2024年3月現在まで開催はされていません。

この公会議では、史上初めて世界五大陸から投票権を持つ参加者が集まり、教会の現代化をテーマに多くの議論がなされたそうです。

主な目的は「教会の信仰の遺産を現代の状況に適合した形で表現し、信徒の一致・キリスト教徒の一致・世界と教会の一致をはかること」「世界の誤謬を糾弾するものではなく、慈悲をもって世界の問題に対処する態度を追求する」公会議であると、ローマ教皇ヨハネ23世が開会式で宣言しました。

ちなみに、第7回ニケーア公会議の後、1054年に東西両教会が互いに破門し合ったことはお伝えしましたよね。

この破門が解かれ、互いに和解したのは1965年です。

なんと900年以上も破門しあっていたとは・・・。

「互いに正統に認め合い、赦免し合う」ことを両者合意したそうです。

同じ宗教からスタートしたはずが、こんなにも時間をかけてようやく認め合うところまでくるとは、不思議なものですね。

もちろん、一緒になったわけではなくあくまで互いを認めあった、というわけですが。

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