なぜナポレオンはイギリス領セントヘレナ島へ流されたのか

ナポレオンは2度、島へ流されました。

1度目はエルバ島

そして2度目はセントヘレナ島です。

エルバ島は当時、フランス領でした。(現在はイタリア領)

ナポレオンといえばフランスですよね。

でも、セントヘレナ島はイギリス領です。

なぜ、フランス人であるナポレオンの2度目の流刑地は、イギリス領の島だったのでしょうか。

もくじ

セントヘレナ島とは

場所はここです。

なかなかの孤島ですよね〜。

アフリカ大陸から約1840キロも離れています。

こんな場所、誰がどうやって発見したのか?

遡ること500年前。

1502年にポルトガル人の航海家ジョアン・ダ・ウィーノに発見されました。

やっぱりポルトガルか

時代はまさに大航海時代ですね。

このときはセントヘレナ島に住み着く、というよりは航海途中の補給地としてしか利用しませんでした。

そのためポルトガル領になったわけではありません。

ところが1657年、イギリスの東インド会社がセントヘレナ島の行政権を獲得しました。

ここから、イギリス人の入植が始まったとされます。

実は日本からヨーロッパへ向かった天正遣欧少年使節も、1584年にここに寄港していたよ

今はもう飛行機が就航しているので船を利用することはほとんどありませんが、スエズ運河が開通するまではヨーロッパとアジアを往復する船舶の補給地として重要な役割を果たしていたようですね。

ナポレオンの流刑地

ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れた1815年。

さすがにエルバ島の教訓もあり、流刑地は遠いところにしようとなったはずです。

ではなぜイギリス領のセントヘレナ島だったのか?

ワーテルローの戦いはイギリスのウェリントン公が英蘭連合軍およびプロイセン軍を率いてナポレオンを撃破した戦いでした。

これにてナポレオンは退位へと追い込まれ、アメリカ亡命を考えたようですがとてもそれはできそうもなく、結果イギリス軍に投降したのです。

そのため、ナポレオンの身柄の扱いはイギリスに一任されます。

結果、保護下に置くのに遠く絶海の孤島だったセントヘレナに決まったのです。

1815年10月にセントヘレナ島に到着。

1821年5月に亡くなりました。

ちなみに、ワーテルローってベルギーの地であることは知っていましたか?

ナポレオンが過ごしたロングウッドハウス

ナポレオンが過ごした(幽閉された)ロングウッドハウス。

少数の部下とともにこの地にやってきましたが、まぁイギリスの監視はなかなかすごかったようです。

万が一ナポレオン派の人間がいて、あるいは来て、この島から脱出するようなことがあればとんでもないことになりますからね。

イギリスのメンツ的にも。

結果、ナポレオンは1821年に胃癌で亡くなったとされています。

一部には暗殺説もありますが、もはやこればかりはわかりませんね。

遠い孤島で起きたことは誰にも検証できませんしね。

亡くなったナポレオンの遺体は1840年にフランスに返還され、いまはパリに眠っています。

ちなみにロングウッドハウスですが、ナポレオンの死後、フランス政府に寄贈されました。

現在は博物館になっているようです。

この地で亡くなったナポレオンは日々何を思って過ごしていたのでしょう。

もしかしたら、何も無いこの地で逆にゆったりと過ごせたのかもしれません。

セントヘレナ産のコーヒーを飲むことが癒やしのひととき(唯一の楽しみ)だったとも伝えられています。

日本からも遠くなかなか気軽に観光で行ける地ではないですが、行く手段がまったくないわけではありません。

気になった方はぜひ、ナポレオン流刑地のセントヘレナ島へ訪れてみてはいかがでしょうか。

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