アヴィニョン捕囚から教会大分裂(シスマ)まで

中世ヨーロッパ史★★★

さて、時代は十字軍が終わった後のお話です。

舞台は14世紀に入ったフランスです。

このとき、フランスの王はフィリップ4世(在位:1285年~1314年)。

彼は、第7回・第8回十字軍を指揮したルイ9世の孫にあたります。

端麗王という呼び名がつけられ、まさに当時の”イケメン”といったところでしょうか。

そんなフィリップ4世、ある事情からローマ教皇と対立し拉致、なんとフランスのアヴィニョンに教皇庁を移してしまうということまでやってしまいます。

そんなことして大丈夫!?破門されない!?

さて、この頃のローマ教皇の権威はどうなっていたかな。
その点もポイントです。

もくじ

対立のきっかけ

フィリップ4世は、フランスの領土を広げた王としても有名です。

当時はフランス領土内にイングランド領もあり、イングランド王も島ではなく大陸の方で暮らしていたというくらい、まだ島国イングランドは確立されていませんでした。

当時のフランスの経済中心地はフランドルでした。

この地域はイングランドから輸入した羊毛で毛織物産業が発展しました。

そのためイングランドとの関係も深く、フランスにとってはおもしろくない、といったところでしょう。

フランスとイングランドはとにかく対立が絶えません。

軍備増強、戦費調達。

フランスはお金が必要でした。

戦のために、どこからお金を回収すべきか?

税金を上げる?

そう、そして教会や修道院にも課税を求めたんです。

これにはローマ教皇も黙ってはいられません。

この時のローマ教皇はボニファティウス8世。

対立が深まります。

当初のこの対立は、ローマ教皇ボニファティウス8世が、フィリップ4世の祖父ルイ9世を列聖させることで一応は収まりました。

余談ですが、これがあって聖ルイ9世はサン=ルイと呼ばれ、後々のアメリカの都市・セントルイス(ミズーリ州)の地名の由来となりました。

三部会を開催

ところが1301年、フィリップ4世は再度教会に対して課税をしようとします。

もちろん、ローマ教皇は反対をします。

なかなかうまくいかない資金集め。

そこでフィリップ4世は「三部会」を開催することにしました。

三部会:聖職者、貴族、平民(有力都市の商人や農民)という3つの身分の代表を集め、さまざまな課題に関して議論を行う身分制議会のこと。

これはローマ法の原則に則ったものですが、フィリップ4世が初めて開催しました。

聖職者の支持を得られなのはわかっていますが、フィリップ4世は平民たちに国王支持を呼びかけました。

これに対して、ローマ教皇はローマで聖職者会議を開きます。

こんな決め事、無効だと。

聖職者会議で決め、ローマ教皇が承認したことがすべてのものに勝るのだ、というのがボニファティウス8世の主張です。

ところが、この時代はローマ教皇の絶対的権威は失われていました。

絶頂期は十字軍遠征で盛り上がっていたあの頃で終わっていたのです。

結果的に十字軍は失敗に終わっています。

教皇の権威は十字軍がうまくいかない流れと共に、勢いを無くしていました。

アナーニ事件勃発

三部会開催の2年後、事件は起こります。

フィリップ4世はローマ教皇の別荘であるアナーニに兵を送り、そこにいたボニファティウス8世を急襲、監禁したのです。

まさかのローマ教皇が皇帝に監禁されたの!?

考えられないことが起こってしまった。

カノッサの屈辱の頃には想像もできないことだな!

この事件をきっかけに、後の世に「教皇のバビロン捕囚」または「アヴィニョン捕囚」と呼ばれる出来事が起こります。

ボニファティウス8世は監禁後、ローマに戻れたものの、1ヶ月後には亡くなってしまいました。

フィリップ4世は教皇庁に圧力をかけ続けます。

ボニファティウス8世の後は、フランス人のベネディクト11世、同じくフランス人のクレメンス5世がローマ教皇に選ばれています。

そしてこのクレメンス5世のときに、教皇庁をローマからフランスのアヴィニョンに移したのです。

1309年の出来事です。

「教皇のバビロン捕囚」は昔のユダヤ人が新バビロニアに捕囚された、あの出来事からきているの?

まさにそうです。教皇庁がローマからフランスアヴィニョンに移されたことが、昔のバビロン捕囚のようだ、ということだね。

このアヴィニョン捕囚は、実は70年続きます。

そしてその間のローマ教皇は全員フランス人が選ばれました。

また、この間にフランスとイングランドの間に百年戦争が勃発しています。

教皇庁の帰還

フランス王の圧力のもと、なかなかローマに戻ることができません。

当時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリアに侵攻したことも理由としてあげられます。

戻りたくてもローマへ行くことができなかったのです。

ようやくアヴィニョンから帰還できたのは、教皇グレゴリウス11世(在位:1370年~1378年)のときです。

グレゴリウス11世が亡くなり、教皇選挙が行われます。

ここでようやく、イタリア人のウルバヌス6世が選出されます。

あまりに長いこと、フランス系支配が続いたものですから、イタリア系の不満が爆発した形です。

ところが、これにフランス人枢機卿らが異を唱え、クレメンス7世を対立教皇として支持し、なんとアヴィニョンにまたもや移してしまうのです。

ここに、「ローマ教会の大分裂(シスマ)」がはじまります。

大分裂(シスマ)時代

まさかの、ローマとアヴィニョン、それぞれに教皇がいるという異常事態。

これは混乱するのでは…?

残念なことに、どちらの教皇もあまり人気がなく、どっちつかずの状況がしばらく続きます。

1409年ピサ公会議では、ローマのグレゴリウス12世、アヴィニョンのベネディクト13世の両者が廃位され、アレクサンデル5世が擁立されますが、廃位された二人は認めず、なんと3名体制という事態に陥ります。

1414年に開催されたコンスタンツ公会議で、もうこの状況(大分裂)を終わりにしましょう、と決定されます。

新しくマルティヌス5世(在位1417年~1431年)が選ばれ、ここにようやく教会大分裂時代が終わりを告げました。

…といっても、ベネディクト13世は1423年まで教皇位を主張し、その座に留まっていましたが。

ようやくこれでアヴィニョン捕囚のその後までのお話が終わりました。

気づけば100年経っていましたね。

さてこの間、宗教改革の前哨戦ともいうべきウィクリフの登場、そしてフス戦争が起こります。

そしてこのあとはジャンヌ=ダルクが現れて百年戦争の終結が近づいてきます。

落ち着く間もなくルターの宗教改革へと繋がっていきますので、教会権威にまた大きな転換期が訪れます。

参考書籍

キリスト教からよむ世界史|関眞興著|日本経済新聞出版社

真実の世界史講義<中世編>|倉山満著|株式会社PHP研究所

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