ムハンマドが開祖のイスラム教。
ムハンマド死後、正統カリフ時代に終わりがやってきます。
ウマイヤ家がウマイヤ朝を興し、世襲が始まりました。
この、ウマイヤ朝から後に興るアッバース朝を通して、アラブ帝国からイスラム帝国ができあがっていきます。
今日はまずウマイヤ朝についてみていきましょう。
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正統カリフ時代の終焉とウマイヤ家の反乱
イスラム教が広がりつつある中、正統カリフ時代にアラブ人による征服活動が行われます。
636年にビザンツ帝国(いわゆる東ローマ帝国)を破り、シリア・パレスチナの全土を制圧しました。
さらに、642年にはエジプトのアレクサンドリアを陥落させ、こちらもビザンツ帝国よりエジプトを奪った形になりました。
エジプトって、穀倉地帯ですからとっても重要な場所なんですよね。
642年は歴史的にも有名なニハーヴァントの戦いもありました。
ここでササン朝ペルシアを破ります。
これを機に651年、ササン朝ペルシアは滅亡しました。
このように、650年頃までにアラブ人の征服活動はどんどん広がり、東はペルシア、アフガニスタン西部まで、北はカフカス地方、西はシリア、エジプト、リビアあたりまでがイスラム世界に入ったのです。
ムハンマドがイスラム教を興してからわずか数十年でここまで広がったんだね
しかし正統カリフ時代の第四代カリフ、アリーの時代に事件は起きます。
アリーはムハンマドの従兄弟であり、ムハンマドの娘ファーティマの夫でした。
実は第三代カリフのウスマーンの時代に、貧富の差が拡大していました。
ところがウスマーン自身が富める方に属していたため、有力部族間で利権を分配し、イスラム教団の世俗化を推し進めようとしていました。
当然、その恩恵を受けない貧しいものたちや、既得権益者になれない部族たちはウスマーンに不満をもちます。
ウスマーンは暗殺され、次に期待されたのがまさに第四代カリフのアリーだったのです。
アリーは勇猛果敢な人物だったといわれています。
そのため、アリーが改革してくれるとみなが期待しました。
ところが、ここに出てきたのがシリア総督のウマイヤ家、ムアーウィアでした。
ムアーウィアは既得権益者の側でした。
アリーに改革されては困るのでしょう。
アリー就任に反対し、なんと軍を率いて戦争をしかけました。
ここはアリーが制圧したのですが、交渉を持ち掛けたムアーウィアに応じる姿勢をとったことで、不満をもった身内の兵士になんと暗殺されてしまったのです・・・!
ここに正統カリフ時代が終わりを告げます。
ウマイヤ朝と非アラブ人のマワーリー
661年にシリア総督のムアーウィアが、シリアの大都市ダマスクスを首都としたウマイヤ朝を興します。
このウマイヤ朝は750年まで続きました。
意外と100年くらいしかもたなかったのね
ウマイヤ朝はアラブ人(もといアラブ有力部族)優先の社会でした。
要は、アラブ人の有力部族に特権を保障する代わりに、カリフの地位をウマイヤ家で継承することを認めさせたのです。
後にこれがウマイヤ家滅亡の一因となってしまうよ
アラブ人の中でも下層に属する人々と、アラブ人ではないがイスラム教に改宗した人々、彼らの不満がどんどん膨れ上がっていくのです。
この、マワーリーたちを認めなかったり、追放したりする政策をウマイヤ朝はとります。
にもかかわらず、どんどんマワーリーは増えていきます。
そこでウマイヤ朝はどうしたか。
彼らの不満を外にそらすため、遠征という膨張作戦をとります。
つまり、遠征を進めていく軍事都市にマワーリーを住まわせて軍として活用したのです。
アラブ人との差別から目を逸らさせ、軍事都市への定住を認めて税の支払いを免除する仕組みをとりました。
それによりウマイヤ朝は急速に支配領域を拡大していきます。
ところが遠征活動がひと段落するとどうなるか。
また元の不満分子に戻るだけです。
結局問題を先延ばしにしたにすぎません。
戦いによって得られる一時的な恩恵は、戦いが終われば無くなります。
結局収入が途絶え生活に困窮するマワーリーが増えていきました。
ここで、既得権を守ろうとする有力部族と、貧しいアラブ人、マワーリー、そしてムハンマドのハーシム家こそが正当な後継者と考えウマイヤ家を否定するシーア派の対立が勃発していきます。
ウマイヤ朝は広くなりすぎた領土を支配しきれず、混乱に陥ります。
ここに出てきたのがアッバース家でした。
アッバース家はシーア派を味方につけて749年イラク中部のクーファを占領し、アッバース朝を興しました。
翌年、ウマイヤ朝を倒して、滅亡に追い込んだのです。
このように、ウマイヤ朝は上手にアラブ人・非アラブ人をまとめることができませんでした。
一部の人間に富が集中するのは、確かによくないですね。
しかしウマイヤ朝時代にイスラム教は爆発的に広がりました。
それは、ウマイヤ朝が膨張するにあたって他宗教の人々(キリスト教やユダヤ教、ゾロアスター教など)を排除しなかったことが1つの要因と考えられます。
アラブ人と差別はしても、税さえ払って言うことをきくなら、イスラム教に改宗しなくてもいまいる土地で生活していいよ、というスタンスがポイントです。
もし征服した地で彼らを追い出していたら、ここまで急速に大きく、イスラム教徒も増えなかったと考えられます。
そしてこの教訓を活かしたのがアッバース朝です。
ウマイヤ朝のアラブ帝国を、イスラム教で繋がるイスラム帝国に変えたのがアッバース朝なのです。
後日談・・・ウマイヤ朝残党がイベリア半島へ逃げる!
アッバース軍がウマイヤ朝を滅ぼす際、逃げ切ることができたアブドゥル=ラフマーン1世は、イベリア半島へ入りコルドバに首都を置きました。
いわゆる、後ウマイヤ朝です。
756年〜1031年まで続いた後ウマイヤ朝。
アブドゥル=ラフマーン3世の治世には、カリフを名乗ってきます。
929年のことでした。
また、チュニジアではイラン系の将軍イブラーヒーム=イブン=アグラブがアッバース朝からの独立を宣言。
これは、アッバース朝のカリフが宗主権であると認めることを条件として成立した事実上の独立でした。
アグラブ朝が800年に成立し、チュニジア一帯とシチリア島も支配しました。
ところがこの王朝は、現地の反抗勢力に倒されます。
反抗勢力はシリアからウバイドッラーを呼んでアグラブ朝を倒したのですが、彼は第四代正統カリフであるアリーとその妻ファーティマの子孫であると言ったのです。
これがいわゆるファーティマ朝の始まりであり、909年〜1171年まで続きます。
ファーティマ朝はエジプトを征服し、アッバース朝から独立。
現在のカイロに首都を置きました。
ファーティマ朝はシーア派初の王朝でした。
そしてなんと彼もまた、カリフを名乗りました。
つまりこの時代、アッバース朝のカリフ・後ウマイヤ朝のカリフ・ファーティマ朝のカリフと、3人もカリフがいたことになります。
これがいわゆる3カリフ時代だよ
しかし、後に3カリフ時代が終わるときがきます。
後ウマイヤ朝はムラービト朝が成立するとカリフを名乗ることをやめ、ファーティマ朝も次のアイユーブ朝に変わるとアッバース朝のカリフの権威を認めて自らカリフを名乗ることはなくなりました。
こうしてまたカリフはアッバース朝カリフ1人になりました。