中世ヨーロッパ史★★★/宗教史★★★
中世ヨーロッパ史を語るうえで必ず通る宗教改革!
まっさきに浮かぶのはどんな言葉でしょう・・・
ルター?
プロテスタンント?
95か条の論題?
どれも宗教改革に関する言葉ですが、まずは前哨戦があったことを忘れてはいけません。
前哨戦?
有名なルターが出てくる前から、教会に疑問を投げかける人物がいたんです。
時代は少し遡りますが、ルターに繋がる大事な話です。
時代背景と共に追いかけてみましょう。
英語に翻訳された聖書
ウィクリフの登場
14世紀後半、英仏百年戦争の真っ只中に、イングランドのオックスフォード大学神教授であるジョン・ウィクリフが教会批判をしました。
教会がなぜこんなに権力をもっているんだ!
堕落した教会を通して聞く神の声などあるか!
聖書こそ、真の救いを得られる!!
弱く貧しいものに寄り添ってこその教会。
それなのに私腹を肥やしてけしからん、という話ですね。
それもこれも、聖書がラテン語で書かれているからで、普通の人が読めないのをいいことにやりたい放題なのではないかと。
そしてウィクリフは決意するのです。
聖書を英語に翻訳してやる!!!!
彼自身が翻訳したのかどうかは定かではありませんが、この翻訳は大きな一歩となります。
ローマ教皇もこれには激怒でしょう・・・実際そうだったかもしれませんが、とはいえまだ小さな火種程度です。
そんなことよりこの時代はアヴィニョン捕囚後の大分裂時代真っ只中です。
こっちはこっちで大変。
教皇権威も昔ほど強くなく、ウィクリフは彼が生きているうちに処刑されることはありませんでした。
死して墓を掘り起こす
「生きているうちに」ということは、死んだ後どうなったのか。
まさかの死して30年が経とうとするとき、異端認定されてしまったのです。
そして異端認定されて13年後、墓を掘り起こされ、白骨化していた遺体をまさかの火炙りにしてしまいます。
火葬じゃん。
というか、ここまでするというとてつもない執念に驚かされるばかりです・・・。
フス戦争勃発
ヤン・フスの登場
ウィクリフのあとに登場するのがチェコ(当時はベーメン)のプラハ大学教授で聖職者でもあるヤン・フスです。
時代はほぼ同じです。
フスはウィクリフの主張に共鳴し、同じく教会批判を行います。
こうも立て続けに批判されては困るな、ということでフスは破門されます。
そしてフス派に対して十字軍をおこそうとするのです。
まさかの十字軍!?1200年代に終わっているはずなのに・・・またこの言葉が出てくるんだね。
そう。しかし、戦争をするためのお金がない。
資金調達のためにここで贖宥状が登場してきます。
贖宥状(しょくゆうじょう)の登場
もともと、教会大分裂の時にローマまで巡礼できない者に対して、巡礼と同じ効果を与えるものとして贖宥状が出されていました。
これが思いのほか売れたのか、その後さまざまな理由で贖宥状の販売が行われるようになっていったと考えられます。
こんなおいしく儲けれるなら、そりゃやりますよね。
特に有名なのが、サン・ピエトロ大聖堂の建築費用を調達するため、贖宥状購入者には全ての償いを免除すると公表しました。
自分の罪だけでなく、死んだ者の罪もあなたが代わりに購入することで救われますよ、というおまけつきです。
いくらなんでもやり過ぎでは?
結果的にこれら贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになるんです。
とりあえずフスの時は教会大分裂もそろそろ収拾をつけないと、という思いからか神聖ローマ皇帝の提唱のもとコンスタンツ公会議が開かれました。
そこでは大分裂の終息に向けた動きと、ウィクリフとフスの両者を異端認定する宣告がなされたのです。
1414~15年の出来事ですが、既に死んでいるウィクリフが異端認定され、そして生きているフスは捉えられて裁判にかけられました。
そしてもちろん、火炙りの刑で命を落とすこととなります。
フス戦争からジャンヌ・ダルクの死まで
時代のうねりとはおもしろいもので、少しのズレや違和感がやがて大きな波となっていきます。
フスを支持していた人たちが1419~36年にかけてフス戦争を起こします。
これがなかなかの長期戦争でした。
チェコ民族運動と合わさっていたので人数も規模も大きくなっていきました。
これに対して、フス派十字軍が5回も計画されましたが、すべて失敗に終わっています。
最終的には、フス支持者たち側の敗北にはなりましたが、フス派勢力は17世紀頃まで生き続けます。
そしてこの最中に登場したジャンヌ・ダルクが余計にローマ教皇および教会を脅かすこととなったのです。
ジャンヌ・ダルクに関してはこちらに詳しく書いています↓↓↓
さて、これでルターが現れるまでの下地ができあがりました。
いよいよかの有名な95ヶ条の論題が出てきます。
宗教改革のはじまり
贖宥状といえばルターを思い浮かべるくらい、この2つは密接に繋がっていますが、そもそも贖宥状はルター登場よりも前から売られていました。
ではなぜルターがいるドイツで宗教改革がはじまったのか・・・?
ちょっと細かい話になりますが、ある1人の野望から話がはじまります。
アルブレヒトさんです。
彼は今で言うドイツの、ブランデンブルグ辺境伯でした。
彼はマクデブルク大司教もしていたのですが、さらにランクをあげようとドイツの主座大司教であるマインツ大司教を狙います。
しかし、そのためにはお金が必要です。
「認めてあげるけど、初めは税金はらってよね。」と、ローマ教皇。
そうです、就任するにも初収入税とやらを払わないといけないみたいで。
それも莫大な金額とのこと。
アルブレヒトにそこまで工面できるお金はなかったので、当時の大資産家フッガー家から借金をします。
「借金返済・・・こんな金額払い終えることができるのか?なんとかしたい!」と、アルブレヒト。
そこで今度はローマ教皇に、「贖宥状を売る権利を認めてください!」と頼み込みます。
許可を得ることに成功したアルブレヒトは贖宥状の販売をスタートさせたのです。
ところがこの地域を仕切っているのはザクセンの選定侯フリードリヒ3世でした。
彼はこの悪どい商売を気に入らず、販売を認めてはいません。
そんなときこの騒ぎを聞いたのがルターだったのです。
そして彼は所属するヴィッテンベルク大学の門に95か条の論題を張り出したとかしてないとか。
ここに、歴史的有名な話に繋がっていくのです。
ちなみに、宗教改革がルターのときに一気に広まっていったのは、活版印刷の影響が大きかったためです。
当時、ドイツのグーテンベルグが活版印刷術を確立しました。
今まで写本するしかなかったものが、活版印刷の登場で大量に本を作れるようになったのです。
今の技術や量とは比べ物にはなりませんが、それでも当時からすると画期的なことです。
これをきっかけに、聖書を個人が手にして読むことが可能となり、教会からしか聖書の言葉を知ることができなかった生活が一変していきます。
そしてルターも聖書をラテン語からドイツ語に翻訳しました。
ラテン語を読めるのはほんの一部の人間だけでしたが、ドイツ語に訳されることで読める人々の範囲は一気に広がります。
こうして、教会の専売だった「聖書」は失われ、贖宥状もいつしか消えていくこととなりました。
「なまぬるいぞルター!」
ローマ教皇および既存のカトリックに批判的な態度をとり、聖書こそがすべてだと原点回帰した彼らを「プロテスタント(=抗議者)」と呼ぶようになります。
今でもルター派の国は、ドイツ北部、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドの北欧あたりが中心です。
「ルター派」っていうことは、ほかにも派閥があるんだよね?
まさに、ルターの次に現れるカルヴァンがそれにあたります。
カルヴァンに至る前に、ツヴィングリを紹介しておきましょう。
1519年、スイスでツヴィングリも宗教改革を起こしました。
曰く、「なまぬるいぞルター!」です。
彼は国王にも楯突いていきます。
すべては聖書、すべては神の言葉。
これに反するものはローマ教皇であれ国王であれ、追放だ!という、一種の革命思想を拡散しはじめたのです。
ルターは宗教改革を主張しましたが、一方である程度俗世との折り合いもつけています。
もちろんそれでもカトリックからは狙われ、破門やら追放はされていますが、ツヴィングリほど堅物ではありません。
結果、ルターは生き続けますが、妥協を許さないツヴィングリは内戦で戦死してしまいます。
そんなツヴィングリの残った勢力をうまく吸収していったのが、カルヴァンです。
カルヴァン派の登場
同じプロテスタントの道をたどることとなるカルヴァンですが、ルター派とカルヴァン派はとにかく仲が悪い。
そのためプロテスタントも一枚岩ではありません。
時代がくだるにつれて、カトリックV.Sルター派V.Sカルヴァン派の三つ巴になっていきます。
さて、カルヴァンについてですが、彼は1509年フランスに生まれます。
彼と親交のあった大学総長が異端の疑いをかけられたことから、スイスのバーゼルに向かうこととなります。
そこでは先ほど登場したツヴィングリがいたのですが、そこを拠点にカルヴァンも活動していきます。
カルヴァンもルターをなまぬるいと非難します。
原理主義にも似たカルヴァンの主張は、とにかく厳しいものでした。
すべてを聖書に則った生活にすべく、夜の見回りも行い、人々の生活を監視します。
また、有名な預定説を重視します。
神と人は隔絶し救済されうるかは神により絶対に預定されている。信徒は必ず救われると確信し、与えられた世俗的職業で精励するしかないのだ、と。
つまり、天国にいくのか地獄にいくのかは、神があらかじめ決めているんだ、と言っています。
だから生まれたあとで贖宥状を買って救われるなんて、そんなわけがない。
はじめから決められているんだから。
そして、与えられた職業は、神がはじめから決めてくれた職業である。
その職業をまっとうすることこそが大事であり、その結果天国か地獄か決まるわけではないが神から与えられた職が自分の道なんだという考えを説くのです。
この考えが根本にあるので、歴史的には以下のような説明につながっていきます。
この考えがあるから人々は一生懸命に働き、利潤を得てもそれは神が与えてくれた使命なのでなんら問題はないという、資本主義精神に繋がっていく。
現代の代表的なカルヴァン派の国は、アメリカ、スイス、オランダなどです。
江戸時代の日本で貿易が認められたのはオランダのみ。スペインやポルトガルが貿易できなかった理由は布教活動が激しかったから。オランダはカルヴァン派なのでキリスト教布教はなく、利益重視の貿易が成立。
カルヴァン派のオランダは、あくまで預定説に基づいて行動します。
ゆえに、そもそもキリスト教でもない日本人に、布教の意味など見いだせないわけです。
さて、この先ですが、ヨーロッパではここから悲惨な宗教戦争が繰り広げられていきます。
宗教戦争といえば他宗教との戦いをイメージするかもしれませんが、どちらかというと悲惨なのは同じ宗教の中での戦争です。
その話はまた別の機会で追っていくことにしましょう。