フランス史★★★
さて、前回はバスティーユ牢獄襲撃までお話しました。
ここから国王ルイ16世処刑までをみていきましょう。
前編はこちら
ルイ16世の憂鬱 もう革命はうんざりだ!
この時点でも、市民は「国王」を必要としており、決して王政打倒を目指しているわけではないことを押さえておきましょう。
むしろバスティーユ牢獄襲撃後、憲法制定作業が進められ、立憲君主が実現される手前まできていました。
つまり、以前に比べて平穏だったのです。
一方で、ルイ16世はだんだんと世の中の革命気運にうんざりしてきた節があります。
自分の思うようにいかない、状況は悪くなる一方だ。
自由もきかず、ヴェルサイユ宮殿からパリまで移動もさせられた。
どうしてこんなことになってしまったのだ・・・?
妻のマリーアントワネットもこの状況には混乱していたことでしょう。
彼女はオーストリア・ハプスブルク家出身です。
この際、オーストリアの力をかりて、一時避難(またはフランス脱出)をしようか・・・?
そう考えたとしてもおかしくありません。
そんな中、ルイ16世がパリから脱出して形成を立て直そうと本気で思った最後の引き金は、おそらく「聖職者市民法の制定」ではないかと考えられています。
まず、ルイ16世は敬虔なカトリックであることを知っておかねばなりません。
そんな彼にとって、聖職者市民法の制定の内容は冒涜にも近い気持ちになったはずです。
聖職者市民法の制定とはなんなのか?
少しここをみていきましょう。
聖職者市民法の制定 聖職者も市民と同じ扱いだ!
政府は、1789年11月に財政難の解決のため教会財産を国有化します。
また、1790年8月には聖職者たちを公務員にしてしまいます。
これが「聖職者市民法の制定」です。
簡単に中身を説明すると、聖職者たちは革命への忠誠を誓わされ、司教などの任命権をローマ教皇から奪うものでした。
これにより、国王の聖性もなくなります。
そして第一身分は無くなりました。
教会は国家の管理下に置かれ、聖職者は人民によって選任される立場になったのです。
立場上この法律に同意をせざるを得ないルイ16世でしたが、敬虔なカトリック教徒である彼にとってこれら一連の動きはいよいよ我慢ならないものでした。
ローマ教皇はもちろん、これを弾劾しています。
さらに同時期、ルイ16世は例年行っていた静養地への旅(パリ郊外のサン=クルー城への静養)を市民に阻止されます。
ルイ16世は逃げるつもりなどなかったのに、市民はそれを恐れて静養地への旅路でさえ制限したのです。
もう我慢ならない!!!!
こうして、かねてからあたためていたパリ脱出計画を実行に移す決心に至ります。
ヴァレンヌ逃亡事件 うまくいくはずだった逃亡計画
1791年6月20日深夜、いよいよ国王一家は出発します。
予定ではベルギー国境から10キロのところにあるモメンディの要塞に行き、王党派部隊と合流、そこからオーストリア軍の援助も得て脱出完了、とうい計画でした。
ところが、これは結局失敗に終わります。
なぜ失敗してしまったのか・・・?
いくつかありますが、まずめちゃくちゃ目立つ馬車での移動でした。
深夜なので目立たないとはいえ、6頭立ての大型馬車です。
こんな豪華な馬車に乗れるのは限られた人でしょう。
怪しまれることこの上ない。
それでも深夜のうちに移動しきれたらよかったものの、途中何度か休憩をはさんでいます。
さらに荷物が多かったため、想定していたスピードで走り切れなかったことも遅れる原因として考えられました。
これにより、要所要所で待機していた護衛部隊とうまく合流することができなかったのです。
「国王たちは全然時間になっても現れないぞ。今日というのは間違いだったか・・・?」
その結果、護衛部隊の指揮官は「また予定の変更か。次の新たな予定の通達まで撤退だ!」と判断してしまったのです。
実はこの逃亡計画が実行されるまで、何度か日程が変えられ延期されていたのです。
いよいよ本番の日でも、時間通りに現れないし(しかも結構待っていたそう)、あまり護衛部隊が長居したら町の者に怪しまれる、ということもあって撤退の判断はやむなしと思われます。
結局国王たちが約束の場所に到着したのは予定より約6時間遅い21日の午後6時でした。
さすがに、21日の朝には国王たちがいないことがパリで発覚しています。
革命政府は各市町村に国王たちを見つけ次第身柄を拘束するよう伝達をしています。
予定通り正午に護衛部隊と合流できていたら脱出は成功していたでしょう。
ところがそれが叶わなかった。
国王一家はヴァレンヌにて深夜、身柄を確保されたのです。
彼らはパリに連れ戻されました。
王政廃止 なぜルイ16世は処刑されたのか?
ヴァレンヌ逃亡事件により、国王一家はさらに厳しい監視下に置かれます。
そしてフランス国内は国王の裏切りにショックを受けます。
王様と共に新しい国を造りたいと思っていたのに・・・王はわれらを見捨てて外国に援助を得てこのフランスに攻め込もうとしたのか・・・?
これまで築いてきた国王と市民の信頼関係が、この事件で崩れたのです。
王政を廃止せよ!!!
流れは立憲君主制から共和政を求める声に変ります。
しかし一旦は王政は維持されます。
1791年9月にフランス史上はじめての憲法が制定されました。
国王の権限は最小限にされ、ここに「立憲君主国」のフランスが誕生しました。
10月には選挙が実施され、新しい議会「立法議会」が発足します。
では、いつ王政が廃止されることになるのか・・・?
王政廃止までにもう1つ大きな事件が起こります。
事件というより、戦争です。
フランス対他国の戦争です。
オーストリアやプロイセン、イギリス含め、王政を樹立している国々にとって革命および国王一家の監視は大問題です。
国王一家に手を出したらどうなるかわかっているだろうな?フランスの革命をつぶすからな。
ということです。
これに対してフランス国内では意見が2つに分かれます。
「外国の介入など不要!自由のために戦うぞ!」という開戦派と、
「いや、外国勢との戦いよりまずは国内の反革命勢力との戦いが先だ!」という反戦派。
結果、1792年4月12日にフランスはオーストリアへ宣戦布告します。
この後他国も参戦し、ふたを開ければフランス対ヨーロッパすべてという構図となります。
ところでこの宣戦布告、ルイ16世はひそかに喜んでいました。
こんなのフランスに勝ち目などない。
他国が入ってきて革命を阻止し、自身もフランス国外に連れ出してもらえる可能性がある。
そうなればめでたしだ、という考えでした。
しかし不思議なもので、フランスは屈しなかったんですよね。
はじめは負けてましたが、国を守るための人々の士気の高さは半端じゃないものでした。
さて、王政廃止の最後の決め手です。
それは戦時体制強化のための法案です。
- 革命に敵対的な聖職者を国外に追放する
- 地方から2万人の国民衛兵隊を呼び、パリに駐屯させる
ルイ16世はこの法案に拒否権を発動していました。
外国勢がパリに押し入ってきたとき、これらが承認されていたらまずいと考えていたからです。
フランス国の一大事です、なんとか承認してください、という内務大臣を罷免し、それが公になったことで国王の運命は終わりました。
1792年8月10日、ついにパリ民衆は連盟兵団と共に国王がいるチュイルリー宮殿を攻め、制圧しました。
王権は停止され、国王一家はタンブル塔に幽閉されます。
ルイ16世はもはや国王ではなく、ただ一人の人間、「ルイ・カペー」となったのです。
ルイ・カペー処刑まで、あと5か月です。
ルイ・カペーの処刑 フランス革命はまだ続く
元国王をどうすべきか。
12月11日に裁判にかけられます。
裁判では、元国王が外国勢と通じていて、密告していたことも明かされます。
2回目の裁判は12月26日に開かれました。
元国王は有罪なのか?どんな刑を科すべきか?
最終的には「国民の裁可」にゆだねることとなり、しかしこれは結果的に皮肉なものとなります。
元々は国王の命を救うためにジロンド派が提案したことでしたが、結果、この「国民の裁可」は有罪という判決になります。
1793年1月15日、426対278(棄権37票)で有罪。
そして有罪として刑はどうすべきか。
死刑:387名
追放・幽閉等:334名
ただし、死刑投票のうち「執行猶予付き」としたのは26票。(これは事実上は死刑反対を意味する)
つまり、361対360という1票差で元国王の処刑が決まったこととなります。
1793年1月21日、ルイ・カペーは処刑。
1793年10月16日、マリーアントワネット処刑。
こうして元国王一家は断頭台の露と消えたのです。
しかしフランス革命はこの後、1799年まで続きます。
革命派のジロンド派が敗れたのち、政権を握ったのはジャコバン派です。
ここからロベスピエールの恐怖政治が始まります。
フランス革命のギロチンのイメージはこの、ロベスピエールの恐怖政治時代のものです。
その後、ナポレオンが台頭し1799年11月10日のブリュメールのクーデターでフランス革命が終わりを告げます。
フランスの動乱はまだまだ続きますが、この後の世界を形成したフランス革命は、われわれ人類にとっても大事な歴史的出来事となったのです。
おすすめ書籍