フランス史★★★/美術史★
フランス革命はいまのフランスを築くうえで大事な歴史です。
教科書でも、フランス革命はあまりにも有名。
そのせいか、ルイ16世・マリーアントワネットの処刑、市民革命といった言葉だけが残って、結局おおまかな流れはハテナな状態ではないでしょうか?
ナポレオンもしかり。
「なんか、強かったけど結局島流しにあったんだよね?」
こんなイメージだけが残っているかもしれません。
今日は、そんなフランス革命からナポレオン失脚までの流れを追っていきたいと思います。
ブルジョワ勢力、どっちの味方につく!?
ところで、フランスといえば王室のイメージってありませんか?
たしかに、ヴェルサイユ宮殿とかロココ絵画とか、王室のイメージが強いかも。
でも、いまはフランス王室はないよね
あれ、そういえばそうだな・・・あんなに華やかな王室のイメージがあったのに・・・フランス革命で途絶えたのか。
厳密にいうと、フランス革命後一度だけ王政復古はしてるけど、1848年に完全に無くなってしまいました
まず、フランス革命が起きた後、フランス内ではどのような動きがあったのか。
フランスで市民たちの手によって王制が倒された!しかも国王は処刑!!なんてこった!!!
このように、フランス革命は、周りの王国に戦慄を与えました。
おいおい、うちにまで波及してきたらどうする!?そんなこと、絶対に阻止しないと!
そう思ってもなんら不思議ではありません。
現代でも、チュニジアから始まったアラブの春が起きたとき、周りのアラブの国々に波及することを恐れたのに似ています。
フランスの周りでは、自国にこの革命が波及しないよう、フランスに軍事介入をしようとします。
1793年に、グレートブリテン王国(イギリス)やプロイセン、オーストリアなどが対仏大同盟を結んだのです。
フランス、大ピンチです。
この時代、中産階級であるブルジョワ勢力が力を持ち始めてきましたが、数でいったら圧倒的に下層階級の市民たちが多く、一方で上流階級である王侯・貴族たちは自分たちの立場や権力を守ろうとしますが、王制が倒されたいま、混乱に陥っています。
そんな中、周りから軍事介入が押し寄せてきます。
どうするフランス!?
この戦争に立ち向かうため、フランス政府は国民皆兵の徴兵制度を導入しました。
そう、今までは王侯貴族に使える、いわば個人的な軍隊だったのが、ここに「フランス国」を守るための自国民による軍隊が誕生したのです。
これは世界的にもかなり大きな転換点と言われてるよ
自分たちの国は自分たちが守る!国民としての意識が芽生えます。
このように、フランスで陸軍に従事するのは一般市民=下層階級の市民たち。
つまり下層階級の市民たちの力が絶対的に必要なわけです。
必然的に、中産階級は下層階級たちと手を組んでいくことになります。
ここに、共和制が確立していきます。
これとは反対に、中産階級のブルジョワ勢力が王侯・貴族たちと手を組んでいくと、立憲君主制に繋がります。
イギリスがその例です。
イギリスも同じように市民革命があり国王を処刑していますが、最終的には立憲君主制を確立していきます。
なぜなのか。
王侯・貴族たちがうまく中産階級を取り込み、譲歩したからです。
下級市民たちの力は必要なかったのか?というと、イギリスは島国ということもあり周りの干渉がありませんでした。
市民たちの声を聞き、彼らの不平・不満・要望をいちいち聞いたり反乱を起こされていたらたまったもんじゃない。
なんなら、下級市民たちは危険因子扱いをされたわけです。
中産階級のブルジョワ勢力も、譲歩してきた王侯・貴族たちとうまく折り合いをつけていくことに納得し歩み寄りはじめた。
そして徐々に立憲君主制ができあがっていったのです。
フランス:ブルジョワ勢力が下層階級の市民と結びついていく・・・共和制
イギリス:ブルジョワ勢力が王侯・貴族たちと結びついていく・・・立憲君主制
下層階級からナポレオンが登場
さて、そんな大ピンチのフランスですが、陸軍を構成する下層階級市民の声が大きくなってきます。
政治的発言を声高にしていくのです。
でも中産階級も王侯・貴族も彼らの意見を無視できません。
だって命を賭けて戦場の第一線に向かっているのは彼ら下層階級市民ですから。
そんな中、頭角を現してくる一人の男がいます。
軍人ナポレオンです。
彼は地中海のコルシカ島に下級貴族の子として生まれました。
彼は戦場で戦績を残していき、周りからも担ぎ上げられ、持ち前の才覚を発揮して上にのぼり詰めていきます。
革命後のフランス内の政情不安、周りの王国からの軍事介入、とにかくフランスは急いで強力な新政府の発足が望まれたのでした。
そこに勢いあるナポレオンが現れ、彼が政権の安定をはかり、1800年にはアルプスを越えて北イタリアに侵攻、オーストリア軍を撃破します。
これにはフランス国民も熱狂!
実はナポレオン、パフォーマンスが非常にうまいんです。
有名なナポレオンのアルプス越えの絵、当時ダヴィッドという画家に書かせ、複製も何枚か書かせたようです。
そしてそれを市民たちの目にとまるところに飾り、周知させた。
あんな白馬に乗ったかっこよくて勇ましい姿の絵を見たら、人々が応援したり熱狂したりするのもわかります。
でも実は、アルプスなんて白馬で超えることはできません。
実際はラバ(ロバと馬との交配種)に乗って行っています。
顔もそんなイケメンではないとか。
とにかく、パフォーマンスと宣伝が上手なんです、ナポレオンは。
ルーブルで美術品を市民に開放したことも大きいです。
戦場で勝つたびに、戦利品として美術品を持ち帰ることも、市民を熱狂させる一因になったのです。
人の心を盛り上げるのがうまいなー
ナポレオンさえいれば、フランスは無敵だ!と思ってしまうよね
\ ボタンだよ /
ナポレオンは頭も良かったようで、若いころにユスティニアヌスのローマ法大全を読破して、なんなら覚えていたようです。
そしてこれを参考に、ナポレオン法典まで作ってしまいます。
法の下の平等や個人意思の自由、私的所有権の保障などを定めた民法典であり、各国の近代民法の原型となっています。
日本も、明治時代に制定された民法はナポレオン法典を参考にして作られています。
大陸封鎖の代償
ナポレオンの強さの秘密はなんだろう?
先ほど伝えた、軍事才覚といった頭の良さはもちろん、もう1つ大きな要因があるよ
え、なになに?
それは、国民軍を使っているということとその圧倒的な数だよ
数??
フランス国民が、自国を守るために命をかけて戦う。
それまでのヨーロッパ大陸の戦争には、傭兵が使われていました。
つまり、軍人をお金を払って雇う。
傭兵側からすると、お金次第でもあり、その国や国王になんの義理も情もないわけです。
この精神構造の差はかなり大きいです。
そしてこの自国民軍を多数抱えている、ここがもう一つのポイントです。
フランスは1800年当時、その他ヨーロッパの中でも随一の人口を抱えていました。
推定2700万人。
イギリス諸国でも推定1600万人ですから、この人口の多さはなかなかのものです。
1800年当初は陸軍の兵士の数が戦争の勝ち負けを左右していました。
1800年後半になると兵士の数より装備や兵器の質が勝敗を分けるようになってきます。
ナポレオンは、この圧倒的数を誇る国民軍を率いて、その才覚と共に連戦連勝を重ねていったのです。
しかしこの連戦連勝が、余計にヨーロッパ同盟軍の干渉を強めていきます。
一時期はヨーロッパ大陸の勢力圏を拡大し、さらにヨーロッパの物流網からイギリスを遮断するという大陸封鎖を断行します。(とにかくイギリスとフランスは仲が悪い)
ところがイギリスは別にかゆくも痛くもないわけです。
だって、アメリカにもインドにも通商網があるし、別にヨーロッパの一部と交易できなくてもいいもんね、といった感じです。
逆に困るのは大陸封鎖をされたヨーロッパ側です。
スペインではゲリラ戦が激化し、ロシアもこの約束を破ってイギリスと交易を勝手に再開します。
これに怒ったナポレオンは、1812年にロシア遠征を決行してしまうのです。
感染症と極寒のダブルパンチ
ロシア遠征は完全に失敗に終わります。
一般的には、「ロシアの広大な国土と冬将軍を前に撤退を余儀なくされた」と言われていますが、もう一つ大きな影響がありました。
それは、感染症です。
1812年5月、ナポレオンは45万人の軍隊を率いて、50日分の食料等準備をしてロシア遠征に出発します。
医師や交代要員、予備軍も含めると70万人の大行軍です。
短期決戦で終えるつもりだったのでしょう。
しかし結果は悲惨なものになります。
5月下旬頃から、兵士が高熱で死ぬ、ということがたびたび起こり始めました。
最初は特段心配されず、そのまま進んでいきます。
しかし、ポーランドに入ってからは事態が悪化していきます。
悪路も重なり、補給も途絶え始めました。
兵士たちはその場にある汚い小屋で野宿を強いられたり、食料不足による栄養低下になりはじめます。
一説にはポーランドで既に6万人が病気にかかり死者も増えていく一方だったようです。
不衛生な大集団は飢餓に苦しみ、死者は増える一方。
でも当時、その原因はわからないままでいました。
今の医学だとすぐにわかるのですが、実は原因はチフスの蔓延です。
7月26日、ロシア軍とはじめて交戦したときには、すでに20万の兵士が亡くなっており残りは25万人という状態でした。(一応この交戦には勝利しています)
これにはナポレオンの側近たちも一旦立て直すために撤退しようと進言しますが、ナポレオンはそれを聞き入れず。
9月14日にようやくモスクワに到着したものの、そのときにはすでに兵士は10万人だったと言われています。
チフスの原因も治療法もわからないままでは、同行している軍医にも手の施しようはありません。
ナポレオンはモスクワで冬ごもりする計画でしたが、結局10月19日にフランスに引き返すことにしたのです。
フランスに戻ってきたのは4万人以下となってしまったようで、ナポレオン自身も命からがら12月18日にパリに戻ってきたという状態。
「戦役は酷寒のために撤退せざるをえなかった」と報告したようです。
こんなことがあったにもかかわらず、翌年1813年に20万人の兵を率いて、またロシアに向かったというのですからとんでもないですね。
しかし残念ながら、このライプツィヒの戦いでオーストリアやロシアなどの連合軍に敗戦し、1814年、連合軍がパリを占領してナポレオンは軍内クーデターにより退位させられてしまいます。
彼が作りあげた「国民の軍隊」は、この後の世界で国民が国家の主体になっていくというナショナリズムを勃興させる原点となったのでした。
王政復古と共和制
ナポレオンが失脚したのち、フランスでは王制が復活します。
ルイ18世が即位しますが、貴族の力は衰えており、新興の富裕層市民の拡大、保守的伝統的権威への反発が強くなり1830年には七月革命が勃発。
結局また王制は倒されました。
1848年の二月革命をもって共和制が再び成立し、以降フランスでは二度と王制が復活することはなくなったのです。
不思議とナポレオンはいまでも根強い人気だよね。
意見は二分されるところもあるけど、近世~近代の礎を築いた功績の影響は大きいと思うね。
ナポレオンが眠る墓も観光名所だとか。
ナポレオンの墓が奉られているアンヴァリッドのドーム教会は、パリ観光の名所です。アンヴァリッドはパリ7区にあるフランス退役軍人のための療養所で、ルイ14世が建てたと言われてるよ。
俺もおっきい墓建ててもらえるくらい偉大になりたいなー!!
・・・・・・
新型コロナウィルスが落ち着いて海外旅行ができるようになったら、ぜひアンヴァリッドのドーム教会を訪れてみてください。
参考書籍
・世界史を変えたパンデミック|小長谷正明|株式会社幻冬舎
・「王室」で読み解く世界史|宇山卓栄著|日本実業出版社
・30の「王」からよむ世界史|本村凌二|日本経済新聞出版社