紀元前史★★★/オリエント史★
空前絶後の帝国を築いたアレクサンドロス大王。
この背景には何があったのか。
そして帝国を築いて10年足らずでなぜ亡くなってしまったのか。
突然出てきたよね。アレクサンドロス大王はギリシアの人?
彼はギリシア人一派である北方のマケドニアで生まれたよ
アレクサンドロス大王を知るにはまず、彼の父親フィリッポス2世の話から始めていきましょう。
マケドニア王国とは
時代は紀元前4世紀後半、東地中海のギリシアあたりではペロポネソス戦争やコリントス戦争が続いて起こり、アテネやスパルタがそれぞれで同盟を組みながら、内輪もめでやいのやいのやっていた頃です。
オリエント地域ではアケメネス朝ペルシアが帝国を築いて幅を利かしています。
そんな中、ギリシアの北方に“マケドニア”という王国がありました。
父フィリッポス2世はマケドニアの戦力を高め、ギリシアの方にもどんどん攻めて占領していきました。
これにはギリシア側もびっくりです。
ギリシア内で揉めているうちに突然北方からとんでもないやつが来たぞと。
マケドニア王国は、カイロネイアの戦い(紀元前338年)で、スパルタを除く全ギリシアを支配するようにまでなります。
え!めちゃくちゃ強い!
この戦いには若きアレクサンドロスも共に参戦してるよ。
フィリッポス2世は、「みんなでペルシアを倒そうぜ!」と持ちかけます。
スパルタを除く全ギリシアをコリントス同盟に集めて支配下に置くのですが、打倒ペルシアの提案にはもちろん賛成派・反対派がいました。
当時のアケメネス朝ペルシアは強くて恐れられてたから、反対派がいるのも無理もないね。
わざわざ戦いを仕掛けなくてもいいじゃん、てことだよね
結局、フィリッポス2世は側近に暗殺されてしまいました。
そしてこのペルシア討伐の野望は、息子のアレクサンドロスに託されたのです。
父の遺志を引き継いだアレクサンドロスってどんな人?
アレクサンドロスは、幼少期から実はかの有名な哲学者アリストテレスに学びを得ていたようです。
同じ時代の人なんだ!?
なんか勝手にアリストテレスってもっと古い人かと思ってた!
そう、アリストテレスはアレクサンドロスの家庭教師だったんだよ
戦にも長けていましたが、アレクサンドロスは頭もよかったようです。
性格的には空想にふける傾向があるロマンチストで、ギリシアの叙事詩に登場する英雄アキレウスにあこがれていたといわれています。
30の「王」からよむ世界史(本村凌二著:日本経済新聞出版社発行)
ほんとかなー?
頭も良くて戦にも強くて、ちょっと空想にふける一面もあるなんて、ほんとだとしたら魅力的よね!
アレクサンドロス、東方遠征の始まり
父亡き後、ギリシアを2年かけて制圧し、いよいよ東方へ軍を進めます。
まずはグラニコス川の戦いから始まり、紀元前333年にイッソスの戦いでペルシア軍率いるダレイオス三世に勝利します。
次いでエジプトに入り、ここは闘うことなく楽々クリアしてます。
なんと、エジプトがアレクサンドロスをファラオとして迎えいれたのです。
「ペルシアに支配されたままになるくらいなら、勢いあるアレクサンドロスに頑張ってもらおうか。まぁとりあえず強そうだし長いものに巻かれてみようか」といった打算的な考えがあったとかなかったとか。
大盤振る舞いで都市の名前までつけちゃうくらいです。
そう、今も残る「アレクサンドリア」です。
さて、ここからどんどん東に攻め、いよいよペルシアに追い打ちをかけます。
ガウガメラの戦いでペルシアの大軍相手に勝利、ペルシア帝国の首都ペルセポリスに入場して最終的にペルシア帝国を滅亡させました。
紀元前330年のことです。
ここまででかかった期間は3年
すごい!!!
これでお父さんの野望を見事達成したわけね!
強いんだからもっといけるんじゃねーの!?俺なら行くぞ!!!
ペルシア帝国を倒した後、さらに東へ
そうなんです、アレクサンドロス大王の勢いは止まりません。
さらにがんがん東に進んでいきます。
インド手前まで攻めていきさらにそこも超えていこうとする大王をみて、根をあげたのは部下たちです。
「もう疲れましたよ大王。そんなに東にいってどうするんですか、一旦帰りましょうよ。」
みたいな感じだったのかな。
部下たちの思いが届いたのか、とりあえず東方遠征はインド手前でストップしました。
足かけ10年です。
10年で空前絶後の大帝国を築きあげていったのです。
支配領域はまさしく大帝国となっていました。
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アレクサンドロス大王の最後
しかし、流れは突然変わります。
紀元前323年、なんとアレクサンドロス大王はバビロンあたりで病死してしまいます。
32歳の生涯です。
おそらくマラリアだったのではないかと言われています。
どんなに強くても、病気には勝てないな。
いつの時代も感染症はやっかいだね
当時としてはどうかわかりませんが、それでも32歳で亡くなるのは若い気がしてしまいます。
こうして、アレクサンドロス大王が一代で帝国を築いたわけですが、結局あとが続きません。
そりゃそうですよね。
後継者云々の前に、カリスマ的な人物が突然亡くなってしまったのですから。
アレクサンドロス大王が亡くなって、その後は大きく3つの国に分かれていってしまいます。
- アンティゴノス朝マケドニア
- セレウコス朝シリア
- プトレマイオス朝エジプト
それにしても、こんな短期間で帝国を築いたのは、後にも先にもないアレクサンドロスたった1人ではないかと思います。
ただ、彼が強かったというのはもちろんですが、短期間で東方にどんどん進んでいけたのは、アケメネス朝ペルシアが整備した「王の道」があったからとも言われています。
ダレイオス1世が建設したといわれている王の道には、宿駅が設けられ、守備隊が置かれていました。
王都スーサからサルディスに至る、非常に広大な帝国の版図を通じて、迅速な交通と通信を容易にするためこの幹線道路を建設したようです。
これが結果としてアレクサンドロス大王の東方遠征に有利に働くとは、思ってもいなかったでしょうが…。
さて最後に、イッソスの戦いの場面が描かれているモザイク画、みなさんも見たことあるのではないでしょうか。
ポンペイ遺跡を発掘した際に見つかった画です。
アレクサンドロスってイケメンだったのかな、と思わせるような端正な顔立ちに見えるのはわたしだけでしょうか…?
\ ボタンだよ /
ちなみに、アレクサンドロス大王は左の馬に乗ってる人です。
そして右上の人は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス三世です。
この絵、ダレイオス三世が敗走してるシーンです。
それを追いかけるアレクサンドロス大王。
ダレイオス三世が向き合ってるのでまるで戦ってるようにみえますが、馬は後ろ姿ですよね。
画面でいうと右側に逃げていく絵で、ダレイオス三世は後ろに振り向いているだけです。
この後、ダレイオス3世は命からがら逃げ切りましたが、彼の家族は捕虜となったと言われてます。