【まとめ】大航海時代に活躍した人物

ここでは、高校世界史で習う大航海時代に活躍した人物を時系列にまとめて並べていきます。

スペイン・ポルトガルが地球を二分するに至る経緯がみえてくるよ!

もくじ

ポルトガルが海へ飛び出す

時代は14世紀後半。

イベリア半島はレコンキスタまっただ中です。

レコンキスタとは??

711年にムスリムのウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻。以降、イベリア半島はムスリム国家が支配する。そのイベリア半島の土地を奪回しようと、複数のキリスト教国家が718年から1492年に至るまで再征服活動を行う。この一連の行動をレコンキスタという。ちなみに、レコンキスタはスペイン語で、国土回復運動(こくどかいふくうんどう)と訳されている。

現在のポルトガルやスペインが、レコンキスタを戦い抜いていきます。

それゆえ、他のヨーロッパに比べると諸侯の没落が早く進み、王権が強化されていきます。

ポルトガルは、1385年にアヴァス朝に王朝が交代します。

それと同時に絶対王政が確立されていきます。

レコンキスタが達成されると、そのパワー(レコンキスタに向けられていたエネルギー)はどこへ向かうのか・・・?

ポルトガルの位置から考えると、西の大西洋に出て行くか、東のカスティーリャ王国に向かうかのどちらかです。

残念ながら、カスティーリャ王国とは姻戚関係があるので、攻めていくことはできません。

と、いうことで、大西洋に出て行きます。

さて、そんな時に登場するのがエンリケ航海王子です。

エンリケ航海王子~アフリカの金を求めて~

エンリケ航海王子とは何者なのか?

エンリケ王子

1394年~1460年に生きた王子。誰の王子かというと、ポルトガル王国の王子であり、1385年に始まるアヴィス朝初代国王ジョアン1世の三男。歴史的にエンリケ航海王子と呼ばれるが、彼自身は船酔いが激しく、航海にでることはなく指揮するのみだったと言われている。その際にサグレスに設立したのが航海士学校。ここを拠点に探検航海を組織した。

そんな彼が航海を指揮することとなったのは、アフリカの金が理由でした。

当時、ムスリム商人がアフリカのサハラ砂漠一帯を牛耳っていました。

サハラ縦断交易を行い、西アフリカから金を入手していたのです。

レコンキスタが完結しつつある中で、エンリケ王子はこのアフリカの金を、ムスリム商人の手を介することなく直接入手できないか、考えます。

こうしてポルトガルは海を飛び出して南下していきます。

1414年、アフリカ西北端のセウタに到達。

翌年8月にはセウタの攻略が完了し、ここを拠点にポルトガルはアフリカ一帯への進出を始める準備が整うこととなったのです。

ここから先は苦難の連続で、どんどん南の航路を攻めていくものの、うまくいきません。

地道に何度も続けた航海、そして時代が進むにつれて船の技術が発達し、1444年、ついにサハラ砂漠を通過するムスリムのキャラバンに頼ることなく、アフリカ南部の富を手に入れる航路を確立するという、エンリケ王子の当初の目的が達成されました。

探検隊は1460年にはシエラ・レオネ沿岸に到着し、エンリケ王子はこの地で66年の生涯を終えます。

バルトロメウ・ディアスの探検

その後、バルトロメウ・ディアスがさらにアフリカ南下を進め、ついには喜望峰に到達したのです。

バルトロメウ・ディアス

エンリケ航海王子に仕えたポルトガルの冒険航海者。

当初、喜望峰周辺で嵐に合い遭難したため、そこがアフリカ最南端とは気づかなかったようです。

嵐で沿岸から離れ、陸地が見えなくなったことにより、慌てて陸地を目指して航路を立て直したところ、船の左側に陸地が見えたとのことで、おそらくここで最南端に至ったことに気づいたと思われます。

実際には、バルトロメウ・ディアスはリスボンへ帰るときにこの喜望峰を確認しアフリカ最南端発見ということだったと言われています。

今では「喜望峰」と呼ばれる場所も、当時バルトロメウ・ディアスは「嵐の岬」と名付けてポルトガル国王に報告したようです。

しかしこの発見を、ポルトガル国王はインドへ続く希望の路だと喜んだため、「喜望峰」と正式に名付けられたとのこと。

今見る地図の喜望峰にはこんな経緯があったんですね。

コロンブスのアメリカ大陸発見

さてここで、スペイン国王の命でコロンブスが大西洋航海に出ます。

コロンブス自身はイタリアのジェノバ出身。

彼は地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく、という着想と確信があり、スペイン王室に資金援助を頼み込みます。

それに成功し、1492年、大西洋の航海へ出ました。

結果的に、到着したのはインドではなくアメリカだったのですが、当初はインドを思われていたため西インド諸島と名付けられたのはあまりに有名ですね。

アメリカの名が出てくるのはもう少しあとです。

アメリゴ・ヴェスプッチの航海

彼もイタリア人です。

1497年~98年まで、カリブ海を航海します。

その後、スペイン王の命でアメリカ北海岸を探検、また、ポルトガル王の命で南アメリカ東岸や北東部を探検します。

アメリゴ・ヴェスプッチは、探検の中でこれは新しい大陸であると気付き、著書「新世界」の中でそのことを述べています。

1507年にドイツの地理学者マルティン・ヴァルドミュラーがこの「新世界」から取り上げて、新大陸を著者のアメリゴ・ヴェスプッチから取って、アメリカと呼ぶのです。(アメリゴはラテン語でアメリクス、それを母なる大地ということで女性形をとってアメリカとされた。)

ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路

バルトロメウ・ディアスの喜望峰発見により、インド航路の道筋がほぼはっきりと見えてきました。

そのインド航路を確立したのが、ヴァスコ・ダ・ガマです。

ヴァスコ・ダ・ガマ

ポルトガルの航海者、探検家。インドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物。このインド航路の開拓によって、ポルトガルは15世紀に覇を唱えることとなる。

1498年にヴァスコ・ダ・ガマはムスリムの案内人も雇い入れ、インドのカリカットに到達しました。

このインド航海に際しては、バルトロメウ・ディアスも水先案内人としてヴェルデ岬まで同行していたようです。

その後、ポルトガル国王マヌエル1世の命で、1497年~1506年まで8回のインド遠征隊が送られました。

ポルトガルは、1510年にインドのゴアを占領し、翌1511年にはマラッカ王国を滅ぼしました。

これにより、モルッカ諸島を占領。

モルッカ諸島といえば香辛料の産地です。

ポルトガルはこの香辛料の地を手に入れたのでした。

1517年には中国のマカオに到着、そして1543年に日本の種子島にやってきました。

マゼランの世界一周

さて、最後になります。

有名なマゼラン一行の世界一周です。

フェルディナンド・マゼラン

ポルトガル出身のスペインの航海者、探検家。

1519年に始まる航海でスペイン帝国の艦隊を率いた。マゼラン自身は航海半ばの1521年に亡くなる。マゼラン一行(マゼランの部下フアン・セバスティアン・エルカーノが艦隊の指揮を引き継ぐ)が世界一周を達成するのは1522年。その途中の1519年にフィリピンに到達しており、スペイン国王フェリペ2世の名にちなんで現フィリピンの名が誕生する)

マゼラン一行が世界一周をしたことにより、1494年に結ばれたトルデシリャス条約は一部変更され、1529年のサラゴサ条約で再調整されました。

もちろん、いま紹介した以外にも多くの人が航海に出ています。

主要なものだけ時系列でみてきましたが、こんな短期間によくこれだけ見つけて航路を整えたな、と思います。

このあとポルトガル、スペインに続きオランダやフランス、イギリスが世界の海に飛び出していきますが、世界が大きく一つになっていくのと引き替えに、多くの犠牲が生まれていくのもこの時代からです。

大航海時代がもたらした今後の世界史にも注目していきたいと思います。

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