ドイツ史★★★/オーストリア史★★★/フランス史★★
ドイツは長い間神聖ローマ皇帝のもと、多くの領邦が存在し、我々はそれらをまとめて神聖ローマ帝国と呼んでいます。
そんな神聖ローマ帝国が大きく変わることになった出来事が、三十年戦争でした。
この戦争は1648年に終結し、ウェストファリア条約が結ばれることになったのですが、その際にドイツは300ほどあった領邦の1つひとつに主権が認められました。
これがいわゆる、「神聖ローマ帝国の死亡診断書」です。
それぞれが主権をもつということは、神聖ローマ帝国は実質的に無力化したこととなります。
引き続き神聖ローマ皇帝は存在しましたが、名ばかり皇帝といったところでしょうか。
とはいえ、ドイツが統一されるのはもう少し先の話です。
今日はドイツという1つの国ができあがる過程をみていきましょう。
ナポレオン戦争後の世界〜ウィーン会議でドイツ連邦成立〜
さて、ナポレオン戦争はあまりにも有名ですね。
ナポレオンがセントヘレナ島へ流され、ヨーロッパで開かれたウィーン会議で、ドイツについてあることが決まりました。
それは、ドイツは「35の連邦と4つの自由都市から構成されるオーストリアを中心とした国家連合」となったことです。
先程お伝えした通り、300近くあった領邦国家が随分とスリム化しましたね。
オーストリアを中心とした、というところもポイントです。
ハプスブルク家の支配地域であるオーストリアが、やはり大きな力を持っているわけです。
とはいえ、ドイツ連邦という形は成立しました。
ところが、です。
オーストリアも大きな力を持っているのですが、実はこのときプロイセンも大きな力をもっていました。
ドイツ連邦内の二大勢力といったところでしょうか。
どちらがドイツ連邦の覇権を握るのか、ここは複雑なところではありますがオーストリアとプロイセンが直接対決をする前に、1つの出来事がありました。
それがデンマークとの領土問題です。
デンマーク戦争
実はデンマークとドイツ連邦の間には、「曖昧な」場所が存在していました。
シュレスヴィヒとホルシュタインという場所です。
実は、どちらも公国なのですが、一応デンマーク王の支配下にありました。
- シュレスヴィヒ:デーン人の住民が多い
- ホルシュタイン:ドイツ系の住民が多い
なんとなく察しがつきますよね。
※現在の地図ですが、おおよそこの赤い点線内がシュレスヴィヒ・ホルシュタインの場所です。
厄介なのが、ウィーン会議の際、ホルシュタイン公国がドイツ連邦の一部だと認められたのです。
これをきっかけにデンマークとの緊張が高まりました。
ドイツ連邦の一部なのに、デンマーク王の管轄です。
複雑すぎます。
「だったら、シュレスヴィヒはデーン人(デンマーク人と捉えていいかと思います。)が多いんだからデンマークに併合しよう!」となりますよね。
ところがシュレスヴィヒにもドイツ系住民はいます。
彼らを中心に、デンマークへの併合に反発します。
瞬く間に、シュレスヴィヒ公国・ホルシュタイン公国の住民の多くがデンマークではなくドイツ連邦へ入りたい!という声が大勢となったのです。
デンマークはこの声に応えてか、一応シュレスヴィヒにもホルシュタインにも自治権を認めました。(1852年ロンドン議定書)
一旦落ち着いたかにみえたこの問題ですが、後にデンマーク王クリスチャン9世が即位した際にこの約束をなかったことにしたのです。
この2つの公国にデンマーク憲法を適用させようとしたのです。
これには住民が猛反発。
そしてまたとない絶好の機会を得たとばかりに、ドイツ連邦はプロイセン・オーストリア共同戦線にて出兵をします。
これが1864年デンマーク戦争です。
結果はドイツ連邦の勝利です。
当時勢いにのるプロイセンと、衰えたとはいえ数々の戦を経験したオーストリア軍ですからね。
この戦争でシュレスヴィヒ・ホルシュタイン共にプロイセンとオーストリアの共同管轄下に置かれることとなりました。
あれ?ドイツ連邦ではなくプロイセンとオーストリアの共同管轄?
違和感がありますね。
そうです、せっかくデンマーク戦争で協力したのですが、結局この地域を巡ってプロイセンとオーストリアは対立してしまいます。
そしてドイツ統一に向かって時代は進んでいきます。
プロイセン・オーストリア戦争と北ドイツ連邦の成立
案の定、共同管轄していたシュレスヴィヒ・ホルシュタインを巡って、プロイセンとオーストリアは対立しました。
シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアがそれぞれ管轄することとなっていたのですが、ここでプロイセンはホルシュタインも自国の管轄に置くことを考えはじめ、その地域へ介入しはじめます。
というのも、当時ドイツ連邦内では「大ドイツ主義」「小ドイツ主義」の考え方がありました。
ナポレオン戦争後、国民国家の考えが浸透しはじめ、同一民族で1つの国家を目指す傾向にありました。
「大ドイツ」はオーストリアを含むドイツですが、「小ドイツ」はオーストリアを除いたドイツという考え方になります。
プロイセンはもちろん後者の「小ドイツ主義」を目指します。
なぜなら、オーストリアは当時ハンガリーを支配下に置いており、オーストリア領内ではドイツ人以外の民族も多く住んでいたからです。
それでは「ドイツ人」国家の成立は難しいと考えたのです。
プロイセンはドイツ連邦を脱退し、オーストリアに宣戦布告。
1866年プロイセン・オーストリア戦争が勃発しました。
この戦争はドイツ連邦内の他の領国を巻き込んだ戦争となりました。
プロイセンの影響が強い北ドイツはプロイセンに味方し、オーストリア周辺の南ドイツはオーストリアに味方しました。
南ドイツはカトリックが多いのでそういった理由もあったかもしれません。
バイエルンやザクセンもオーストリアに味方しました。
実はここで、参戦してきた国があります。
1861年に一足先に統一を実現したイタリア王国です。
イタリア王国は悲願の統一を叶えたのですが、一部まだオーストリアに支配されたままの地がありました。
そういった理由からプロイセン側についてこの戦争に参戦したのです。
結果はプロイセンの圧勝でした。
プロイセンは当時工業が盛んで鉄道や通信の整備をしっかり進めていました。
また、オーストリア軍の研究も、実はデンマーク戦争のときにちゃっかり行っていたようです。
プロイセンはオーストリア側についたザクセンをまずは粉砕します。
そして一気にオーストリア・ウィーンにまで迫りました。
オーストリア軍が対応する時間もないくらい、素早い動きをしたプロイセン。
当時はヴィルヘルム1世(プロイセン王)、ビスマルク(プロイセン首相)、モルトケ(参謀総長)、シュティーバー(とんでもない諜報員)と、役者揃いでした。
結局この戦争はプロイセンが勝利し、プラハ条約が結ばれました。(1866年7月)
なんと開戦から7週間で終わった、短い戦争でした。
プロイセンはホルシュタインを手に入れ、そしてドイツ統一にはオーストリアは組み入れないことを認めさせたのです。
プロイセンはドイツ連邦を解体し、「北ドイツ連邦」を結成。
そうです、まだ「北」しか統一できていません。
オーストリアを排除することはできましたが、ドイツ南部が残っています。
ちなみに、イタリアはここでヴェネツィアをオーストリアから取り返しました。
そしてオーストリアにはこのあとさらに苦難が待ち受けます。
支配下にあったハンガリーで民族意識が高まり独立の機運が高まります。
オーストリアはハンガリーを自立した王国として認めましたが、オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねる同君連合としたのです。
1868年、オーストリア=ハンガリー帝国の成立です。
プロイセン・フランス戦争とドイツ帝国の成立
さて、ドイツ統一が目前までやってきました。
残るは南部併合です。
ところがこの南部一帯は先程もお伝えした通り、カトリックが多い地域です。
ローマ教皇の影響が大きく、そして当時そのローマ教皇の後ろ盾にいたのはフランスでした。
つまりプロイセンはフランスと戦う必要があったのです。
ところでこの時代のプロイセンとフランス、誰がリーダーだったのでしょう。
プロイセンはビスマルク、フランスはナポレオン3世です。
ビスマルクは策士です。
うまくフランスを挑発にのせてプロイセンに宣戦布告させました。
1870年7月19日、プロイセン・フランス戦争の勃発です。
結構互角になるかと思いきや、プロイセンの圧勝でした。
ナポレオン3世を捕虜としたくらいです。
この戦争での敗北でナポレオン3世は退陣、フランスはこの後二度と王政や帝政に戻ることなく共和制に移行しました。
ドイツは念願の統一を果たします。
1871年元旦、ドイツ帝国が誕生しました。
華々しくドイツ帝国成立を宣言するのですが、結果これが後にフランスとの遺恨を残し、ひいては第一次世界大戦につながることをこの時点では誰も予想できなかったことでしょう。
実はドイツ帝国成立の宣言をフランスのヴェルサイユ宮殿で行いました。
負かした相手の国で新国家成立宣言です。
自国でやればいいものをわざわざフランスでするわけですから、そりゃフランスはいい気がしませんよね。
また、フランスに多額の賠償金を支払わせ、フランス・ドイツの境界にあるアルザス・ロレーヌ地域をドイツに割譲させました。
アルザス・ロレーヌ地域といえば地下資源が豊富でここはドイツもフランスも欲しがる、常に争いの地でありました。
ドイツはこのあとアメリカに次いで工業生産国2位まで上り詰めます。
負けたフランスは横目でそれを目の当たりにし、ふつふつと復讐心を燃やしていたことでしょう。
ドイツ帝国はその後、フランスを封じ込めることに全力を注ぎ、「平和」維持のために均衡を保つ政策に舵を切るのです。
ビスマルクとピザの関係
ピザメニューに必ずあるビスマルク。
ピザに半熟たまごがのっているのが特徴ですよね。
これ、まさにドイツの鉄血宰相ビスマルクからきています。
でもビスマルクがピザに半熟たまごをのせて食べていたわけではありません。
彼が好きだったのは目玉焼きをステーキにのせる食べ方でした。
それをイタリアがピザで応用してビスマルク風にしたことが由来のようです。
当時ドイツとイタリアは協力関係にあったのでそれも関係しているのかもしれませんね。
ビスマルクもまさかピザメニューに自身の名前が後世残るとは思ってもみなかったでしょうね。
参考図書
戦争超全史 発行所:ダイヤモンド社 著者:東大カルペ・ディエム
「王室」で読み解く世界史 発行所:日本実業出版社 著者:宇山卓栄
嘘だらけの日独近現代史 発行所:扶桑社新書 著者:倉山満
「ヨーロッパ王室」から見た世界史 発行所:青春出版社 著者:内藤博文