なぜジブラルタルはイギリス領なのか?

ジブラルタル海峡をご存じでしょうか。

地中海と大西洋の玄関口となる海峡です。

地図でみるとここです↓↓

イベリア半島とアフリカ大陸が、目と鼻の先ですよね。

一番狭いところ(近いところ)で約14キロなんだとか。

そしてこの海峡のスペイン側に、ジブラルタルという場所があります。

これ、どうみてもスペイン領でしょう。

ですが、このジブラルタルだけはイギリス領なんです。

なぜここがイギリス領になったのでしょうか。

もくじ

ジブラルタルの歴史

古代、ジブラルタル海峡はヘラクレスの柱という岬の名前が付けられていました。

北のスペイン側(もちろん古代の時点でスペインという国は存在しませんが)の岬は現ジブラルタルで、柱としてみられたのは426mの石灰岩の岩山「ザ・ロック」と言われています。

南のアフリカ側の柱については諸説あるようで、セウタのモンテアチョ、またはモロッコ最北端にある高さ842mのムーサー山と言われています。

ちなみに、ジブラルタルのザ・ロックは、ジブラルタ生命の会社ロゴにもなっていますよ。

さて、そんなジブラルタル海峡ですが、あるとき「ジブラルタル」という名前の由来につながる出来事が起こります。

ジブラルタルの名の由来

711年、イスラム教国ウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードが海峡を渡ってイベリア半島に進撃しました。

そして当時イベリア半島にあった西ゴート王国を征服したのです。

このイベリア半島への上陸が、西ゴート王国からしたら想定外だったんですよね。

山があって見えなかったとか。

気付いた時には山越えを果たしたターリク軍が攻撃をしてきた、という状態でした。

これにちなんで、「ターリクの山」を意味するアラビア語「ジャバル・アル・ターリク」が転訛して「ジブラルタル」になったようです。

その後、ジブラルタルは後ウマイヤ朝、ナスル朝とイスラム教国に支配され、一時はキリスト教国カスティーリャ王国に占領されるも、レコンキスタが完遂するまではイスラム教国グラナダ王国が支配していました。

レコンキスタを終え、スペイン王国が誕生すると、1501年にはジブラルタルもスペイン王国のものとなったのです。

スペイン継承戦争によってイギリス領へ

ところが、1700年に勃発するスペイン継承戦争がジブラルタルのその後を大きく変えます。

このスペイン継承戦争は、フランス対その他ヨーロッパの大国、といった構図になっています。

スペインのカルロス2世に子がおらず、王位継承をどうするかという戦争なのですが、カルロス2世は遺言で血縁関係のあるフランスルイ14世の孫を継承者として指名していました。

ところがそれに待ったをかけたのはオーストリアハプスブルク家です。

また、他国もフランスがスペイン王室を継承することで強大化することを恐れ、オーストリア側に与します。

その辺の詳しい話はこちらを読んでみてください↓↓

とりあえず結論から言うと、フランスがスペインを継承することで決着がつきました。

ここに現在のスペイン王室に繋がる、スペインブルボン家が誕生しました。

しかしこの継承にはいろいろと交換条件があったんですね。

その1つがジブラルタルのイギリス領化です。

フランスがスペインを継承するのは認めてやるけど、ジブラルタルはイギリスがもらうぜ、ということですね。

それが現在まで続く、イギリス領の所以です。

ここを手放さないということは、かなり重要な拠点だからですよね。

イギリス海軍のジブラルタル戦隊はいまもここに駐屯しています。

そしてこのジブラルタルは、現在のイギリスとスペインの間でデリケートな問題でもあるのです。

返還を求めるスペインと、それに応じないイギリス。

この問題は今後も続くことでしょう・・・注目しておきたいところです。

ちなみに、ジョンレノンとオノヨーコはジブラルタルで婚姻届けを出しているそうです。

なぜジブラルタルで・・・?と思いますが、一説には、ジブラルタルは婚姻届けの受理が簡単にされる、という理由があるそうです。

お互いに離婚が成立していることが証明できれば(つまり配偶者がいないことが証明できれば)、婚姻届けを出して翌日には正式に夫婦になれるのだとか。

ジブラルタルにはジョンレノン、オノヨーコの切手が売っているようですよ。

セウタはスペイン領の謎

一方で、アフリカ大陸側のジブラルタル海峡に面したセウタは、現在スペイン領です。

こちらの歴史は、遠くはフェニキュア人から始まります。

紀元前319年にカルタゴが支配下に置いたのちは、ローマ属州を経て東ローマ帝国領となります。

その後、ジブラルタルと同じようにイスラム教国の支配下に入り、1415年エンリケ航海王子がセウタを奪取し、これによりポルトガル王国領となります。

レコンキスタも後半に差し掛かったころにセウタもイスラム教国からキリスト教国の手に渡ったという感じですね。

そして1580年、ポルトガルのアヴィス王朝が断絶した後、スペインがポルトガル王位を継承し、これをもってセウタはスペイン領となります。

1668年のリスボン条約でポルトガルの独立が認められた際、セウタは正式にポルトガルからスペインに割譲されたのです。

次に、1956年にモロッコが独立する際、セウタ周辺のスペイン領モロッコはモロッコ領となったのですが、セウタはメリリャとともにスペイン領として残されてしまいます。

こちらも現在のモロッコとスペインの間でデリケートな問題となっているのです。

そりゃそうですよね。

モロッコからすると、どうしてここだけ未だにスペイン領なんだ、と思うわけです。

ところがセウタとメリリャはスペイン国の一部であることをスペインは主張しており断固として譲りません。

スペイン側の主張は、この2か所は植民地としてではなく、あくまでスペイン国であると言っているのです。

ゆえに返還といった概念はないと。

こうしてみると、今でも世界中に領土問題は残っているのだと痛感しますね。

経緯も去ることながら、一度手に入れたものは手放したくない、というのが人間の性なのでしょうか。

一方で、昔は自国の領土だったから取り返す、という大義名分で侵攻してくる場合もありますよね。

いつの時代も領土問題を解決するのは難しく、だからといって今という時代において力による一方的な奪取は認められるものでもありません。

そこに暮らす人たちの思いや生活を無視して破壊するのは論外であり、人間である以上、頭と口を使って対話を重視してもらいたいものです。

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