世界にある小さな国家たち
いま、世界には公国が3つ、大公国が1つあります。
そして、今日の主役
ルクセンブルク大公国
ちなみに、公国とは貴族を君主として有する国をいいます。
公爵が君主となっているので、「公国」です。
爵位序列
- 公爵(Duke:デューク)
- 侯爵(Marquess:マークィス)
- 伯爵(Earl:アール)
- 子爵(Viscount:ヴァイカウント)
- 男爵(Baron:バロン)
- 准男爵(Baronet:バロネット)
- ナイト(Knight:ナイト)
※1~5までは貴族で、6~7は称号です。
わたしたち日本人にとっては馴染みが薄いのですが、同じ公国でも爵位の捉え方は国によって若干異なるようです。
例えばモナコ公国は、一応フランス語圏ではDukeより爵位が上位のようで、日本では公国と訳してはいるものの、現地ではモナコ大公と呼ばれることもあるようです。
リヒテンシュタイン公国はドイツ語圏で、実はDukeよりは爵位が下のようです。
そのため、リヒテンシュタイン侯国と訳されることもあるようです。
アンドラ公国はフランス大統領とスペインのウルヘル司教による共同君主制を採用しており、君主は共同公と呼ばれています。
ちょっとアンドラ公国は爵位という点で捉えるなら特殊な感じですね。
では、ルクセンブルクのような「大」公国とは何を指すのか。
実は、公爵より上の爵位「大公爵(=grand duke)」なので、大公国となります。
ならば先ほどのモナコと同じではないか?と思うのですが、なぜかモナコは公国で、ルクセンブルクは大公国なのです。
まぁ、細かいことはさておき・・・そんな小さな国家たち、彼らはもちろん他国より人口が少ないです。
そのため、軍備などを整える予算がありません。
よって、国防に関しては他国にお願いしています。
例えば、モナコ公国はフランスに、リヒテンシュタイン公国はスイスに、アンドラ公国はフランスとスペインに、といった感じです。
ルクセンブルクは独自の軍としては小規模な陸軍を持つのみであり、内陸国であるため海軍は保有していません。
北大西洋条約機構 (NATO)に原加盟国として参加するなど、集団安全保障政策を取っています。
ルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝が登場
ルクセンブルクは現在、ベネルクス3国の一角をなしています。
ベネルクス3国とは、ベルギー、ネーデルランド(オランダ)、ルクセンブルクを指します。
ルクセンブルクは先ほどの地図をみておわかりの通り、内陸国です。
フランス、ドイツ、ベルギーに囲まれている時点で、歴史的に大変な場所であったことは想像できますよね・・・
それでも現在、大公国として独立しているルクセンブルク、すごいですよね。
ルクセンブルクのすごさは「神聖ローマ皇帝」を輩出した家柄である、という点でも納得いただけるかと思います。
ルクセンブルク家の歴代神聖ローマ皇帝
- ハインリヒ7世(在位:1308~1313年)
- カール4世(在位:1346~1378年) ハインリヒ7世の孫
- ヴェンツェル(在位:1378~1400年) カール4世の息子
- ジギスムント(在位:1410~1437年) ヴェンツェルの弟
実はルクセンブルク、今の国土と比べると、もう少し領地は大きかったようです。
そして、当時はボヘミア王位にもついていました。
領地の範囲が飛んでいますが、なぜボヘミア王にゆかりをもつようになったのでしょうか。
ボヘミア王にもなったルクセンブルク家
まずボヘミアですが、9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となります。
10世紀からは神聖ローマ帝国に服属し、その後1289年からは七選帝侯の1人となりました。
そんなボヘミアですが、13世紀にプシェミスル家が断絶します。
次の王位を誰が継承するか、となったときに婚姻政策によってルクセンブルク家が登場するのです。
そうしてボヘミア王位についたのが、ヨハン・フォン・ルクセンブルクです。
彼はプシェミスル朝最後の国王となるヴァーツラフ3世(ボヘミア王)の妹と結婚します。
そして彼の父は神聖ローマ帝国皇帝のハインリヒ7世、息子がカール4世となります。
そんなヨハン・フォン・ルクセンブルクはヴァーツラフ3世の後、ボヘミア国王(在位:1310年〜1346年)とルクセンブルク伯(在位:1313年〜1346年)を兼ねて即位しました。
ここからジギスムントまでルクセンブルク家がボヘミア王を兼ねることとなるのです。
息子カール4世はボヘミア王としてはカレル1世として即位。
実はカレル1世のとき、ボヘミアのプラハは大きく栄えます。
プラハに中欧最初の大学を創設したのもカレル1世です。
その次に息子のヴェンツェルがヴァーツラフ4世として即位しますが、この頃からボヘミアは混乱が生じます。
ちょうどこの頃、オスマン帝国の圧迫が大きくなってくるのです。
最後のルクセンブルク家としてもボヘミア王はジギスムントで、ジクムントとして即位しました。
この頃にはオスマン帝国との戦いに大きく敗れています。
事態を打開しようと、ジクムントは1414年からコンスタンツ公会議を開いています。
ちょうどこの頃は教会大分裂の時代で、とにかくこれを収拾しない限り、ローマ教皇はじめカトリック世界が一致団結してオスマン帝国に立ち向かわないといけないという意識が強くなっていました。
しかし結果としてこれはジクムントの評価を下げることとなりました。
実はこのとき、ヤン・フスの異端審議を巡ってボヘミア内は混沌としていました。
コンスタンツ公会議では、このフスの異端審議もされていたんですね。
ジクムントはフスにコンスタンツ公会議に出席するよう促し、身の安全を保証する通行許可証も発行していたのですが、結局ヤン・フスは異端と断じられ、火刑に処されてしまいました。
これにはフス派が怒り心頭。
1419年のフス戦争へと繋がります。
フス戦争をついに抑えることができず、ジクムントは連敗。
1436年にフス戦争は終わりますが、ボヘミアは疲弊し荒廃してしまいます。
ジクムントも1437年に没し、この後ボヘミア王はハプスブルク家に移り、二度とルクセンブルク家が王位に就くことはありませんでした。
何度やられても立ち上がるルクセンブルク家
さて、最後に現在のルクセンブルク大公国に至る通史をおさらいしておきましょう。
ルクセンブルクは936年にアルデンヌ家のジイクフリート伯が領土を築いたのが始まりです。
このアルデンヌ家の分家であったルクセンブルク家のカール4世が神聖ローマ皇帝になり、1354年にルクセンブルク公国に昇格するのです。
その後、まわりの国々に幾度となく領地の一部を分割されたり支配されたりするのですが、なんとか「ルクセンブルク」という名の地は死守してきたのです。
そしてウィーン会議(1815年)にルクセンブルク大公国として自治を回復しました。
しかしこの時点ではドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国でした。
1839年、1831年のロンドン会議で決められた内容に基づき、ベルギーと領土を二分割されてしまいます。
なぜなら、1830年に始まったベルギー独立革命の際に、ベルギーと行動を共にしたためです。
そして1867年にロンドン条約によって永世中立国を宣言、オランダと同君連合になっています(1890年に解消)。
しかし、第一次世界大戦と第二次世界大戦を通して、ドイツに占領されてしまいます。
1948年、ここで中立政策を放棄して、オランダとベルギーとともに関税同盟であるベネルクス同盟を結成。
翌年にはNATOに加盟します。
1952年にESCS(欧州石炭鉄鋼共同体)にも加盟し、1999年からユーロ導入、もちろん現EUにも加盟しています。
ちなみに、神聖ローマ皇帝を輩出していた頃のルクセンブルク家と、今のルクセンブルク家は異なります。
一応血のつながりはあるものの、傍系中の傍系・・・といったように、直系が続いているわけではないことは覚えておきましょう。
現在はナッサウ=ヴァイルブルク家のアンリが大公を務めています。
ルクセンブルクにまつわるあれこれ
首都:ルクセンブルク市
大きさ:東京都の約1.2倍ほどの面積
国民一人あたりのGDP:世界1位(2022年IMF統計より)
ちなみに、これは1993年から2022年まで、ずっと1位を維持しています。
そんなルクセンブルクですが、森林と渓谷の景観に優れた国で、古城や要塞も残っています。
首都であるルクセンブルク市は切り立った崖の上に立つ古い要塞の町として知られています。
そして旧市街であるこの古い町並みと要塞群が世界遺産に登録されています。
かつては鉄鋼業を中心に栄えていたルクセンブルクですが、1970年代のオイルショック以降、金融業に力を入れ始めました。
現在はロンドンに次ぐユーロ市場での金融センターを有するまでに発展しました。
ユーロ圏における富裕層向けのプライベート・バンキングの中心地となっています。
その一方で、化学繊維を成分とするフェルト材の不織布も輸出しており、日本で使用される使い捨ておしぼりの大半はルクセンブルク製と言われています。