太陽王ルイ14世が起こした4つの戦争

ルイ14世の時代は長い18世紀と言われるほど、ヨーロッパでは戦争が絶えませんでした。

数ある戦争の中で、ルイ14世が関わった大きな戦争が4つあります。

彼はなぜこれらの戦争を起こしたのか。

それらがどういった影響をフランスに及ぼしたのか。

今日はルイ14世の4つの戦争についてみていきましょう。

もくじ

南ネーデルラント継承戦争(1667年〜1668年)

まず1つ目が「南ネーデルラント継承戦争」でした。

ネーデルラントのうち、「南」にあたるのは今のベルギーあたりです。

「北」は今のオランダあたりですが、ここは既に独立を果たしています。

どちらもスペイン領でしたが、オランダは独立し、ベルギーはそのままスペイン領であり続けました。

さて、フランスですがハプスブルク家と仲が悪いのは誰もが知るところです。

厄介なのが、ハプスブルク家がスペインとオーストリアとに分かれて当地しているので、フランスの位置を考えると西のスペインハプスブルク家、東の神聖ローマ帝国皇帝オーストリアハプスブルク家の双方に挟まれています。

フランスはこれが本当に嫌で嫌でたまらないのです。

挟み撃ちにされたら厄介ですからそりゃそうですよね。

フランスはハプスブルク家憎しという感情から、異教徒であるオスマン帝国と手を結ぶくらいなので相当です。

ただ、この頃は婚姻関係を結ぶことで両国に無用な戦が起こりにくくするような工夫はされていました。

フランス・ルイ14世もスペイン王女・マリア=テレサと婚約します。

結果的にこういった婚姻が、後々後継者争いの火種になるとは思ってもいなかったでしょう。

話を戻して、今回の南ネーデルラント継承戦争はマリア=テレサの持参金が発端となります。

この婚姻に際して、条件が1つありました。

「スペイン王女マリア=テレサと結婚は認めるが、フランスはスペイン王位継承権は放棄すること」

これがマリア=テレサの父フェリペ4世の条件でした。

その代わり、持参金をきちんと納めると約束しました。

ところが、フランスが望む額の持参金をスペインは用意できませんでした。

なんとか工面しようとしていましたが、フェリペ4世は途中で亡くなってしまいます。

結局フランスが提示した金額の持参金が支払われることはありませんでした。

この頃はスペインも火の車でしたからね。

これを理由に、ルイ14世は動き出します。

「約束を守ってもらえていない。それならば、スペイン領である南ネーデルラントをよこせ」

と、なってしまったのです。

ルイ14世は南ネーデルラントに軍を向けますが、慌てたスペインが周辺諸国に援助を求めます。

イングランド・オランダ・スウェーデンと同盟を結び、フランスを牽制。

結果、ルイ14世は講和を結ぶことでこの戦争は終わりました。

南ネーデルラントはもちろん継承できませんでした。(一部の都市のみフランスが獲得)

ルイ14世の復讐心は次の戦争に繋がっていきます。

オランダ侵略戦争(1672年〜1678年)

ルイ14世は次のターゲットをオランダに向けました。

先の戦争で、スペインに味方し、実際に軍隊も派遣したオランダに一矢報いてやろうと思ったわけです。

しかもこの頃のオランダは覇権国家に君臨していますから、これ以上勢いにのせてたまるか、ということもあったでしょう。

もちろん、オランダの土地も獲得できたらなおのことよし、といった思惑もありました。

フランスは、当時オランダとイングランドの仲が悪かったこともあって、イングランドと密約を交わします。

北方の大国スウェーデンも味方につけて、戦争を仕掛けました。

オランダはフランス・イングランド・スウェーデンと、大国と戦うこととなりピンチです。

デンマークやプロイセンに協力を仰ぎ、オランダは国土を水に沈めて抵抗します。

新たな総督ウィレム3世のもとで徹底抗戦をし、さらに神聖ローマ帝国、スペインの領邦にも支援を依頼し、なんとかこの戦争を戦い抜きました。

さらにオランダ・イングランド戦争がちょうどこの頃終わりを迎え、講和をします。

その結果イングランドはオランダ侵略戦争から離脱。

フランスは一応勝利とはなりましたが、得たものは多少の土地のみです。

まったく割に合わない結果でした。

また、オランダは今後の対策としてオーストリアやスペインと同盟を結びました。

1686年、アウクスブルク同盟結成です。

フランスの敵対するオーストリア・スペイン両ハプスブルク家を巻き込んでいます。

さらにこのアウクスブルク同盟は1689年にイングランドも加わります。

このとき、イングランドではオランダから総督ウィレム3世を迎え入れてイギリス国王としています。

結果、フランスは周りをアウクスブルク同盟に囲まれることとなってしまいます。

ファルツ継承戦争(1688年〜1697年)

ファルツは神聖ローマ帝国領内にあり、そこの領主は七選帝侯の1人です。

その領主であるカール2世が亡くなった時に問題が起きます。

なんと、ルイ14世が後継者の権利は自分の弟夫婦にあると主張したのです。

ルイ14世の弟の2番目の妻が、亡くなったファルツ選帝侯カール2世の妹だから、という理由で・・・。

これにアウクスブルク同盟が対抗。

フランスはこんな大国だらけの同盟側と戦争をすることになったのです。

結果は言うまでもなくフランスの負けです。

継承権を放棄するライスワイク条約を締結してこの戦争は終わりました。

気づけば9年が経っていました。

大した戦果もないルイ14世の求心力は下がっっていく一方です。

スペイン継承戦争(1701年〜1713年)

ルイ14世、まだやるか。

と、思うくらい戦争をしては微妙な結果に終わり、気づけば戦費がかさんで財政は火の車です。

にもかかわらず絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿なんかを建ててしまうのですから、とんでもないことになるわけです。

さて、最後を飾るルイ14世の大きな戦争は「スペイン継承戦争」です。

今度はスペインハプスブルク家が断絶したことを機に、ルイ14世の孫を継承者として即位させようとします。

ルイ14世の妻マリア=テレサがスペインハプスブルク家出身だったからです。

まだこちらの理由の方がファルツ継承より納得はしますね。

スペイン継承戦争の詳細については↓こちら↓に書いてますのでよかったら読んでください。

結果は、希望通りルイ14世の孫がフェリペ5世となって即位することになりました。

ただし、フランスとスペインが同君連合にならないことを約束させられます。

さらに、フランス、スペインの海外領土のほとんどをイギリスに渡すことも約束しました。

そのうちの1つがジブラルタルであり、今もここはイギリス領として残っています。

唯一、フランスが後世に残せたものはブルボン家です。

ルイ14世の孫がスペイン王になったことで、現代まで続くスペイン王室はブルボン家が継承しています。

本場フランスは王政廃止となりましたが、スペイン継承戦争をしたことでスペインで血筋が残ったということです。

ここまで見てきた通り、ルイ14世治世に起こした戦争の影響が、結果的にルイ16世の時代にフランス革命という形で爆発してしまったわけです。

背景がわからないと、まるでルイ16世やマリー・アントワネットの治世が悪いように思ってしまいますが、根底部分はもうすでにルイ14世の頃から始まっていたわけですね。

戦争はもちろん多くの命を奪ってしまう悲しい出来事です。

そして結局、勝っても負けても、ツケが溜まって悲惨な未来を生み出してしまうことを忘れてはいけないとあらためて感じでしまいます。

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