中世ヨーロッパ史★★★
タイトルの言葉を聞いたことがある人は多いと思います。
スペインが絶頂期の頃を表した言葉です。
ではその絶頂期とはいつだったのでしょうか?
大航海時代の頃かしら?
そうです、1500年代がそれにあたります。
当時はポルトガルとスペインが中心になって世界各地に領土を広げていきました。
なんなら、ローマ教皇に許可をもらって地球を二分割しそれぞれの領土として認められたというとんでもない時代です。
詳しくはこちらを↓↓↓
ところで、なぜ当時のスペインが「太陽の沈まない国」と言われたかご存じですか?
それは、スペインがアメリカ大陸や東南アジアに植民地をもっていて、自国の領土で太陽が沈んでも、別の場所では太陽がある日中を迎えている、という意味からきているよ。
そんなスペインの絶頂期にスペイン王として君臨したのが、フェリペ2世でした。
東南アジアにあるフィリピン、この国名はフェリペ2世からきています。
今の時代まで国の名前として残っているの、なかなか珍しいね
フィリピンがスペイン王の名前からきているなんて知らなかったわ。
さぞかし華やかな人生を謳歌していたのでしょう、と思うのですが実はフェリペ2世、結構大変でした。
スペインハプスブルク家
ハプスブルク家が台頭して、神聖ローマ皇帝位にも就き始めた頃。
カール5世という教科書にも出てくる人物が、親からの相続で一気に支配領域を拡大させます。
家系図で確認するとわかります。
カール5世は退位する際、スペインとネーデルラントの地を子のフェリペ2世に、神聖ローマ皇帝位とオーストリア他中欧諸国・諸邦の支配権を弟のフェルナンドへ譲ることにしたんだよ。
ここからスペインハプスブルク家とオーストリアハプスブルク家と呼ばれるようになっていくのね。
婚姻関係の賜物で生まれたハプスブルク家の勢力拡大。
ヨーロッパの周辺国はこれを脅威と感じます。
そしてこの婚姻関係という呪縛にスペインハプスブルク家は後々直面することとなります。
さらに、これからお話する大きく4つのことにも頭を悩ませることとなります。
金持ちでも4度の破産宣言
1556年にフェリペ2世がスペイン王に就きました。
新大陸で大量の銀が採掘され、スペインに持ち込まれます。
しかし銀の流入で国が豊かになるどころか、大変苦しい思いを多くの人がしてします。
まずは物価高。
市民にとってはしんどいですね。
何か策を講じればよかったのに、国王と上層部は自身の利益のために、また、大半は戦費に充てられました。
既得権益を守るために、とにかく戦争が絶えなかったようです。
自国の領土を守るために地球の裏側でも戦わねばならない、また、ヨーロッパ周辺国とも戦い、あるいは他国の戦争に首をつっこむ。
いつしか市民への税金徴収は右肩上がり、もはや限界に達していました。
フェリペ2世は即位している間に4度もスペイン国の破産宣言を行っています。
え?そんなことになっても大丈夫なの!?
当時といまとでは経済規模が異なるから、債務不履行といっても今ほど国の信用度や経済的打撃の規模は大きくない。
とはいっても、4度の債務不履行はやり過ぎな気がするけどね・・・
あまりにも保有する領土が広大で収拾がつかない状態でした。
カトリック国としての戦い
ハプスブルク家といえば熱心なカトリック信者です。
当然スペインもカトリック国になります。
イベリア半島は1492年にレコンキスタが完了しイスラム教国を追い出しています。
とはいうものの、さまざまな人がいたわけです。
人種もそうですし、宗教もそうです。
フェリペ2世治下、スペインはそれらを取り締まっていきます。
カトリック信者になれ!さもなくば迫害だ!
ヨーロッパは宗教改革真っただ中、スペインにとってはプロテスタントなど言語道断。
ピリピリした状況が続いています。
あまりにも厳しく取り締まった結果、特に商売に長けているユダヤ人たちが出て行ってしまったのは後に大きな痛手となります。
イスラム教徒たちもキリスト教プロテスタントたちも、改宗しないものはひっそりと身を隠すか、移動せざるを得ません。
そんな中、ネーデルラント、特に現オランダ地方はプロテスタントたちや他宗教を受け入れます。
また、フランドル地方は商売繁盛で元気な地域でした。
フランドル地方:元々フランドル伯の領地。フランドル家断絶後、ブルゴーニュ公が継承。ブルゴーニュ公女と結婚したマクシミリアン1世の後ハプスブルク家が継承。毛織物産業が盛んで原料の羊毛をイギリスから輸入していた。
商売の関係からイギリスとの繋がりの方がスペインより強いのが現状です。
スペインはこの地域から利益を収奪。
戦費に充てるためです。
後にオランダは独立のため立ち上がります。
その際、後ろについたのがイギリスでした。
無敵艦隊アルマダが負けた日
世界史の教科書で出てくるこの頃の有名な戦いはレパントの戦いとアルマダの海戦です。
レパントの戦い:スペイン・ヴェネチア・ローマ教皇軍がオスマン帝国を破った戦い(1571年)
オスマン帝国が東地中海を牛耳っていました。
当時のオスマン帝国は強国です。
そんなオスマン帝国がヴェネチア領キプロス島を占領。
これに焦ってヴェネチアはローマ教皇に助けを求めます。
ローマ教皇軍だけでは心もとないので大国スペインに協力を仰ぎます。
そしてスペイン率いる連合軍がオスマン帝国と戦ったのです。
結果、連合軍が勝利しました。
これがなぜ、教科書でならうほど有名な戦いなんだ?
今まで全然勝てなかったオスマン帝国に勝ったからです
そうだったっけ?
ヨーロッパ地域にとっては大事なことなんだよね。
ここにも、世界史の教科書がどういった視点で書かれているか、垣間見えるところだね。
まぁ、このあとオスマン帝国はまた地中海に乗り出してきて、変わらず地中海覇権を握ったままでしたが。
1度の敗戦が大きくピックアップされるのはなんだかかわいそうですね。
ここでは勝利し、スペイン艦隊の強さをヨーロッパに知らしめたわけですが、15年も経つと状況は変わります。
アルマダの海戦:スペインがイギリスに上陸しようと向けた無敵艦隊アルマダがイギリス艦隊に敗れた戦い(1588年)
オランダを後援するイギリスが邪魔で、大西洋の海路でスペイン船にちょっかいを出してくるイギリスが邪魔で、、、
とにかく腹が立ったスペインはついにイギリスに向けて無敵艦隊アルマダを派遣しました。
ところがイギリスとの戦闘、飢餓、疫病、帰路の嵐によりアルマダは壊滅的な打撃を受けてしまいます。
この海戦を機に立て直すことができず、スペインの力は衰退していきます。
婚姻関係に縛られて断絶
時代は少し戻ります。
いつしかフェリペ2世は、母方のポルトガルまで引き継ぐこととなり、スペイン・ポルトガル連合国ができあがります。(1580年)
ところで、フェリペ2世は誰と結婚したでしょう?
実は、イングランド女王メアリ1世と1554年に結婚しました。
あのブラッディメアリーと呼ばれた人?
そう。
あれ?スペインとイギリスは仲良かったっけ?
このときはお互いの利害が一致していました。
当時のイングランドは、ヘンリ8世がローマ教皇にケンカを売ってカトリックを脱退し、イギリス国教会を立ち上げたところです。
イギリス内での跡継ぎ争いでひともんちゃくしたのちにメアリ1世が即位しました。
その過程はこちらを参考ください↓↓↓
メアリ1世はカトリック信者です。
イギリス国教会には賛同しておらず、カトリックを推進していこうとします。
当時のカトリック大国といえばスペインです。
そこで、スペインの後ろ楯を得ようと、フェリペ2世と結婚します。
フェリペ2世はメアリ1世と婚姻関係を結ぶことでゆくゆくはイングランド王になれるのではないか、と狙っていました。
なんせ、ハプスブルク家は婚姻関係で領土を広げていきましたから。
そんなことで、27歳フェリペ2世と38歳メアリ1世は結婚しました。
イギリス内では結婚を反対する声が強かったにもかかわらず、メアリ1世はその声を押し切る形で結婚しました。
フェリペ2世はスペイン王に即位するよりも前にイギリスにて共同王として王位に就いていました。
ところが1558年にメアリ1世は亡くなりました。
それと同時にフェリペ2世の王位も無くなりました。
メアリ1世の次に即位したエリザベス1世にも婚姻関係をもちかけますが、処女王エリザベス1世はもちろん断ります。
カトリックのスコットランド女王メアリ・スチュアートにもアプローチしましたがあえなく失敗。
残念ながらこのあとイギリスとの関係は悪化する一方なので、フェリペ2世のイギリス乗っ取り計画は失敗に終わります。
1598年、フェリペ2世は亡くなります。
この後、スペインハプスブルク家は自分たちの領土を保持するため、また、他家に王位を奪われないため、近親者での結婚を繰り返します。
その結果、遺伝性疾患による先端肥大症の子が多く生まれ、多くが幼いうちに亡くなりました。
当時の認識でも、近親者での結婚にリスクがあることはわかっていました。
それでもこのような結婚を繰り返したということは、やはりよほど他家に乗っ取られることを恐れたのだと思われます。
そしてカルロス2世でスペインハプスブルク家は断絶してしまいました。
スペイン継承戦争が始まり、スペインの地は戦禍にまきこまれていきます。
現在でもスペイン王室は残っています。
それはこのスペイン継承戦争で王位を継承したフランスブルボン家が続いているからです。
本場フランスの地では王室が途絶えましたが、なんとフランスブルボン家はスペインで脈々と続いたのでした。