イギリス史★★★/宗教史★★
清教徒革命と聞くと、イギリスの市民革命であることはみなさん想像できると思います。
でも、清教徒革命の「清教徒」ってなに?となると、急に曖昧になりませんか。
清教徒という漢字と内容(意味)があんまりイコールに結びつかないですよね。
今日はここの「清教徒」について深堀りしてみましょう。
イギリス国教会の成立
イギリスは西ヨーロッパの一員ですが、元々はフランス貴族がフランスに領地を持ちながら、ブリテン島にも進出しイングランド王も掛け持ちするような歴史から始まっています。
これが英仏百年戦争の遠因になったりもするのですが、島国としてイギリスが誕生した後は、北部スコットランド王国と同君連合になります。
そこにアイルランド王国も加わって1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国となります。
後に北アイルランドを分離してアイルランド自由国が樹立され(1922年)、北アイルランドはイングランドと共に1927年、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国と改称されて現在に至ります。
そんなイギリスの歴史の中で、宗教の分岐点となるのが「イギリス国教会」の成立でした。
これはヘンリ8世の時代です。
かの有名な離婚騒動ですね。
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つまり、イギリスはカトリック教会から脱退するという当時としてはかなりセンセーショナルな宣言をするわけです。
これにより、ローマ教皇を頂点とするカトリックではなく、イギリス国王が教会の首長(教会の最高統治者)となる新たな制度をつくります。
しかし新たな制度といっても、「教義はカルヴァン主義に近く、儀礼はカトリックのまま」といった中途半端なものを採用します。
ヘンリ8世がカトリック離脱とイギリス国教会樹立を宣言し、エドワード6世がそれを踏襲するものの、次のメアリ1世でカトリック寄りに戻りそうになった流れを最後にエリザベス1世がイギリス国教会に戻して、一連のイギリス宗教改革は落ち着きをみせたかのようにみえました。
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しかし、ここからさらに複雑化していきます。
エリザベス1世で断絶したテューダー朝を継承したのは、スコットランド王ジェームズ6世です。
彼もイギリス国教会を継承するのですが、王権を強化した絶対王政的な振る舞いをしてしまいます。
そもそもジェームズ6世はなぜテューダー朝を継承できたの?
血筋として、正当性はちゃんとあるんだよ
なるほど、ジェームズ6世はヘンリ8世のお姉さんの血筋なんだね
清教徒(ピューリタン)の脱出
さて、ここで清教徒とは何かをまず確認しておきましょう。
清教徒:イギリス国教会からカトリック要素を排除し、それをピュア(清いもの)にしようとしたことから、清教徒(ピューリタン)と名付けられた。
先ほどお伝えした通り、イギリス国教会は「教義はカルヴァン主義に近く、儀礼はカトリックのまま」という中途半端なものでした。
よく、イギリス国教会はカトリックではないのでプロテスタントと言われますが、これが同じプロテスタントの清教徒とごちゃごちゃになってしまうことがあります。
イギリス国教会はプロテスタントのくくりではあるものの、プロテスタントのカルヴァン派を唱える清教徒とは異なることを理解しておきましょう。
「カトリックではない」ことは共通していても、イギリス国教会と清教徒は異なるということです。
純粋なカルヴァン派教義を目指す清教徒たちにとって、中途半端なイギリス国教会は受け入れがたいものです。
カルヴァン派教義では、聖書がすべて。
聖書のもとでみな平等なのです。
それなのに、ジェームズ1世は王権神授説を唱え、イギリス国教会を彼らに押し付け圧政を強いたのです。
彼の子のチャールズ1世でそれはより強固なものとなり、清教徒たちは迫害を受けたりもします。
この迫害から逃れようと、新天地を求めて海に飛び出したのがかの有名な「メイフラワー号」に乗った清教徒たちなのです。
メイフラワー号乗船102名のうち41名がイギリス国教会を批判する清教徒たちだったと言われています。
彼らは1620年8月、イギリスを出発し北アメリカを目指します。
これがピルグリム・ファーザーズと名付けられ、アメリカ建国の歴史が始まると認識されるのです。
現在ピルグリム・ファーザーズたちが上陸した12月22日が「先祖の日」に、また、彼らが先住民と共に最初の収穫を祝った日が「感謝祭」として11月最後の木曜日がアメリカの祝日になっています。
清教徒革命の勃発
さて、イギリス国教会を強制してくる国王のやり方に、不満は募る一方です。
そして当時は三十年戦争真っただ中。
イギリスは新教徒側を支援したことで財政悪化が深刻になり、その解消のために課税を強化することでさらに市民の不満を大きくしていきます。
当時、イギリス内部では「王党派」と「議会派」の対立が激化していました。
議会派ですが、大きく3つの派に分かれていました。
1つは長老派。
長老派:教階制度を認め、長老という職制のもとでの教会支配を容認する。つまり、一般信者の中から経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営すべきだという考え。聖書を重視するため広い意味で清教徒と言われる。議会派の中で多数派を占める。大商人や貴族層が支持基盤。
もう1つが独立派。
独立派:各教会の独立を尊重する考えをもつ清教徒。都市の商工業者や中小の封建領主層の騎士(ジェントリ)が支持。議会内では少数派。
そして、水平派。
水平派:独立派より急進的。王政を否定。小農民や手工業者、小商人に広がり、人民の権利を最大限認めることを要求。
1642年にいよいよ革命が勃発します。
議会を構成していたメンバーに清教徒が多かったため、この革命は清教徒革命と呼ばれました。
最近は、清教徒革命と名誉革命をひとくくりにして「イギリス革命」と呼ぶそうですね。
当初は王党派が有利でしたが、それもそのはず王党派は昔から軍事組織をもっていたので強いわけです。
対する議会派はせいぜい地方の民兵隊を投入できるくらいでした。
ところがここである男が登場します。
クロムウェルの登場
オリヴァー・クロムウェル
この名は世界史的にあまりに有名ではないでしょうか。
実は彼は独立派に所属していた超絶熱心な清教徒でした。
クロムウェルは騎兵隊を組織します。
のちに「鉄騎隊」と呼ばれた彼の組織は、劣勢をはねのけ、王党派を追い込んでいきました。
内戦が長引く中、長老派が国王との妥協を図ろうとします。
そんな生ぬるいことでは気が済まない独立派クロムウェルは、少数派にもかかわらず軍事力をもってついに1644年マーストンムーアの戦いで王党派に勝利します。
そして主導権を握ったクロムウェルは、長老派を議会軍から追放。
1645年のネーズビーの戦いで勝利し、翌年には国王チャールズ1世を捉えます。
ところがここで独立派と水平派が対立。
その隙に王党派が形成を立て直し戦いを仕掛けますが、独立派と水平派が最終的に手を組んでなんとか鎮圧することができました。
こうして1648年、清教徒革命は終わりを迎えました。
そして1649年1月にチャールズ1世の処遇に関して裁判所が設置され、1月27日には死刑が確定したのです。
いわく、この決定にクロムウェルは関与していないそうで。
本人はそのように証言していたそうです。
さて、王政を否定した結果、共和制が始まるかと思いきや、クロムウェルの独裁が始まりました。
そのクロムウェル自身も、共和制を掲げつつも実際は下層階級のための政治は行いませんでした。
当初は下層階級と手を組んで革命を起こし、王政を倒し処刑まで認めたにもかかわらず、いざ政権を握ると下層階級を弾圧しはじめます。
見事な手のひら返しです。
結局、わーわー騒ぐ下層階級の主張を聞いていたのでは話は進まないし、水平派を中心とした急進的な考えをもつ人々に暴れられては非常に危険だと捉えたのです。
結果、台頭するブルジョワ中産階級の経済力を味方につけることを選び、彼らを擁護する政治を行っていきました。
しかし、忘れてはいけません。
クロムウェルは超絶熱心な清教徒です。
聖書絶対、質素な暮らしを。
これらを市民に強制し、取り締まります。
神権政治です。
市民たちもいよいよ我慢も限界・・・!というときにクロムウェルは亡くなりました。
護国卿は息子のリチャード・クロムウェルが引き継ぎましたが、早々に放棄しました。
俺には無理だ、と。
英断だと思います。
そしてイギリスは王政復古を遂げるのです。
名誉革命の勃発
1660年、王政復古で王位についたのがチャールズ1世の息子、チャールズ2世です。
彼はフランスに亡命していましたが、王政復古ということでイギリスに戻りました。
それにしても、父親が処刑されたのによく戻ってくる勇気があったな、と思うばかりです。
本人もビビっていたのか、当初は立憲君主主義の精神を理解し、議会と妥協しながら過ごしていました。
ところが、徐々に議会の意向を聞かなくなります。
何を学んできたんだチャールズ2世!!!!!父の処刑を忘れたのか!!!
と、言いたくなりますよね。
雲行きが怪しくなってきました。
しかもチャールズ2世、カトリックなんですよね。
チャールズ2世死後、子がいなかったので王位を継承したのは弟のジェームズ2世でした。
このジェームズ2世がこれまた超強硬保守的で、王の専制支配復活を目指してしまいます。
何をしているんだ!!!!!同じことを繰り返すのか!!!!!!
またもツッコみたくなりますね。
議会もざわつきます。
どうするよ、この王様?また処刑しちゃう?
いやいや、ちょっとそこまではね・・・
かの有名なトーリー党とホイッグ党はこの時代に生まれた政党でした。
一応ジェームズ2世の王位継承を容認したのがトーリー党で、反対したのがホイッグ党でした。
どちらもしぶしぶ、という感じではありましたが、一応トーリー党の意見が採用されます。
ところが即位したジェームズ2世が案の定カトリック政策を始めてしまいます。
すると両党一致でジェームズ2世の追放を決めました。
1688年、今回は処刑ではありません。
一応、血を流さずに王を廃位させたということで「名誉的なことだ!」と捉えられ、この一連の革命を名誉革命と呼んだのです。
これにてイギリス革命は終わりを迎えます。
この後、どうなったかだけ最後に確認しておきましょう。
名誉革命後、王位はだれが継承したか
ジェームズ2世には女の子しか子がいなかったはずなのに、なんと56歳で男の子が生まれてしまいました。
しかしもうカトリックの王様はこりごりなイギリス議会です。
そこで、プロテスタント派に王位継承のお鉢が回ります。
ジェームズ2世の子、メアリ2世はオラニエ=ナッサウ家に嫁いでいました。
オランダ、つまりネーデルラントはプロテスタントです。
メアリ2世と夫のオラニエ公ウィリアム3世を迎えて共同統治を依頼しました。
ここに子が生まれていればそのまま継承されたのでしょうが、残念ながらいません。
次にバトンが回ってきたのはメアリ2世の妹、アン王女です。
彼女はデンマークに嫁いだものの、彼女も子がいませんでした。
結果、ドイツに嫁いだジェームズ1世の子、エリザベスの血筋をたどることとなります。
ゲオルクが次なる王位継承者となり、ゲオルクを英語読みしたジョージ1世が誕生するのです。
ハノーヴァー朝がここから始まります。
このジョージ1世、まさか自分がイギリス王になるなんて思ってもみないわけです。
そりゃそうですよね。
生まれも育ちもドイツですから、英語なんて話せませんし学ぶ気もなかったのでしょう。
議会に招集されれば王の立場上出席しますが、よくわからないやり取りばかり。
これが結果的に「王は君臨すれど統治せず」を生み出すこととなります。
イギリスはここでようやく、議会制民主主義の礎を築いていくのです。
そして二度と王政打倒は起こらないのでした。