十字軍とイスラム教国

宗教史★★/中世ヨーロッパ史★★★/オリエント史★★

十字軍と聞いて何を思い浮かべるかな?

聖地奪回!

では、なぜ聖地奪回と言われるようになったのかな?

え?それは…キリスト教徒にとっての聖地がいまイスラム教徒側に取られたから…?

聖地とはどこのことかな?

イェルサレム!

では、イェルサレムは誰にとっての聖地かな?

キリスト教!!…あれ?ユダヤ教もなのかな?そういえばイスラム教にとっても聖地と聞いたことがあるわね…。

わけわかんなくなってきたぞ!!!

そう、イェルサレムは3つの宗教にとって聖地なのです。

ユダヤ教にとっては、ダビデ王が古代ユダヤ王国の聖都としています。

キリスト教にとっては、イエスが処刑され、復活した地です。

イスラム教にとっては、ムハンマドが天使ジブリールに導かれて天馬に乗り、昇天の旅に出発した地です。

イェルサレムは、時代によってキリスト教側が支配したりイスラム教側が支配したりと繰り返されてきました。

さて、時代は11世紀。

この頃はセルジューク朝トルコが勢力を拡大し、小アジア、シリア、パレスチナまで支配地域が及びました。

それにビザンツ帝国が圧迫され、危機感を抱いたのです。

なんとかしてこの脅威に立ち向かわないと、という危機感のもと、ローマ教皇に支援を求めます。

そこから、十字軍の話が始まっていきます。

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もくじ

十字軍結成まで

この時のローマ教皇はウルバヌス2世です。

彼はビザンツ帝国からの支援要請について、クレルモン公会議を開きます。

そこに集まった大勢の前で、「異教徒から聖地を奪還するぞ!」と演説しました。

聖地を取り戻して神との約束の地に住もう、と聴衆に呼びかけたのです。

当時は国軍なんてありませんし、そのような考えもありません。

君主が私的に抱えている兵や、必要な時に雇う傭兵たちがいわゆる「戦う人」にあたります。

では、彼らが一枚岩になって本気で聖地を奪回するために十字軍に参加したのか?と考えると、おそらくそうではなかったと思います。

働き口のない傭兵や騎士たちが、街や村で暴れる(強盗や略奪、私闘など)のを防ぐため、「神の戦士」というまるで崇高なことに従事できるかのような十字軍をうたって、招集したとも考えられています。

また、そういった「戦う人」たちだけでなく、多くの貧しい人たちや、罪を抱えた人たちも参加したのではと言われています。

「巡礼」という宗教的情熱の要素も加わった、ということです。

単なる興味本位や戦利品目当て等、本来の「聖地奪回」という目的とは異なる、私利私欲な考えで参加する者も多かったと思われます。

何はともあれ、第一回の十字軍遠征は、10万人にも膨らみ、聖地イェルサレムに向かうこととなったのです。

大成功をおさめた第一回十字軍

1096年、第一回十字軍が遠征を始めました。

実はこのとき、イスラム教側はかなりゴタゴタした状況でした。

内部分裂が起きていたのです。

時代はアッバース朝ではありますが、もはやアッバース朝カリフに実権はありません。

名ばかり状態です。

代わりにセルジューク朝のスルタンが実権を握っていました。

ところが、彼らも身内でもめていました。

スルタン同士が対立し内部分裂状態、また、対外的にはファーティマ朝とも対立していたのでつまりは内も外も敵だらけ、という状況です。

ファーティマ朝とは、イスラム教シーア派が初めて建国した王朝で、チュニジアから興り、エジプトを征服した王朝です。

そして十字軍がイェルサレムに到着したとき、そこはファーティマ朝が支配していました。

なんか急に大軍がきたぞ、ということで対応できなかったのかもしれません。

また、イスラム教側が一致団結してこの異教徒たちの侵入に対抗できなかったことも要因と考えられます。

結果、十字軍が勝利し、イェルサレム王国を建国することに成功します。

そしてその周辺に、「十字軍国家」といわれる国をいくつも建国します。

彼ら十字軍の行いは凄惨なものだったといわれています。

イスラム教徒に対するおぞましい虐殺が行われ、老若男女関係なく殺されたと。

あたり一帯、血の海になっていたとも言われています。

また、実はイェルサレムに到着するまでの道中、ドイツや東欧で多くのユダヤ人を迫害したとも伝えられています。

とにかく、我々がイメージする「聖地奪回」の行動とは異なる様子がどうもあったと考えられます。

イスラム教側の反撃、第二回十字軍

1147年~1149年にかけて行われた第二回十字軍。

実はその前に、十字軍国家の1つであったエデッサ伯国がイスラム王朝のザンギー朝に滅ぼされました。

ザンギー朝とは、セルジューク朝の武将・ザンギーが1127年に建てた王朝です。

別にイェルサレムが取られたわけではないのですが、フランス王とドイツ王を中心に第二回十字軍が出発しました。

そういった意味では、大した志もなく出発しているため、士気はそんなに高くなかったと思われます。

そしてダマスクスでセルジューク朝に大敗してあっけなく終わります。

その後、サラーフ=アッディーンという、アイユーブ朝を建国した人物がイェルサレムを奪還します。

1187年、ヒッティーンの戦いです。

アイユーブ朝とはスンニ派の王朝で、1171年にファーティマ朝を滅ぼしました。

話題豊富な第三回十字軍

1189年~1192年にかけて行われた第三回十字軍。

イェルサレムを取られたからには、黙ってはいられません。

第三回十字軍は、イギリス・フランス・神聖ローマ帝国の王たちが参加します。

まず、神聖ローマ帝国の王はフリードリヒ1世ですが、彼はイェルサレムに向かう道中に川で溺死したと言われています。

なので、早々に戦線離脱です。

フランス王はフィリップ2世です。

彼はアッコンを攻略した後、早々にフランスに引き換えし、なんとイギリス領地であるノルマンディーに侵攻しました。

まさかの、イギリス王がまだ十字軍遠征の途上で、ケンカを仕掛けにいったのです。

これをきっかけに、最終的にはフランス国内にあったイギリス領をすべて奪うことに成功した、という話に繋がっていきます。

なかなかの策略家です。

一方、イギリス王はどうなっていたのか。

第三回十字軍に参加したイギリス王はリチャード1世です。

アンジュー帝国を築いたヘンリ2世の子です。

リチャード1世は、アッコン攻略後、サラーフ=アッディーンと協定を結ぶことに成功します。

その内容は、キリスト教徒がイェルサレム巡礼をしてもいいよという保障(約束)を得たというものです。

聖地奪還は叶わなくても、折衷案としてなかなかの成功をおさめたのではないでしょうか。

そんなリチャード1世、帰路につく際に嵐に見舞われてしまいます。

そして流れ着いた先が神聖ローマ帝国領だったため、まさかの捕虜として捕まります。

結局、巨額の身代金を払って解放されたのですが、戻ってみたらノルマンディー領は侵略されているし、散々な思いだったことでしょう。

血迷った第四回十字軍

「教皇は太陽、皇帝は月」で有名なインノケンティウス3世。

ローマ教皇の権力が絶頂に達していた時期に迎えたのが第4回十字軍です。(1202年)

リチャード1世の努力空しく、やはりイェルサレムを是が非でも取り返したいという思いから遠征が実行されました。

ところが、あろうことかこの第4回十字軍、ビザンツ帝国を滅ぼしてしまいます。

道中にあったビザンツ帝国のコンスタンチノープルを占領し、十字軍はラテン帝国を築いてしまったのです。

ここから推測するに、もはや「聖地奪回」は単なるスローガンだけだったのではないかと。

参加する者たちの思惑としては、経済的な動機が主だったのではないかと考えられます。

そうじゃないと、ビザンツ帝国には攻め込みません。

略奪がメインになってしまったのではないでしょうか。

この行動に、インノケンティウス3世は激怒し、まさかの十字軍を破門。

ところがその後、教皇にとってもうまみがあったのか、このビザンツ帝国侵略を褒め称え、破門を解いたのです。

余談ですが、ビザンツ帝国が正式に滅ぶのは1453年のことです。

一度ラテン帝国に侵略されましたが、残党が生きながらえて60年かけてラテン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国は復活しました。

第五回十字軍~第八回十字軍

もはや名ばかり十字軍になりましたが、一応最後まで追いかけてみましょう。

第五回は1217年~1221年にかけて行われました。

イェルサレムを取り戻すために、相手方の補給路を断たせようと考えたのが第五回十字軍です。

つまり、アイユーブ朝のエジプトから攻めてやろうという魂胆です。

これはナイル川の洪水にはまり、結局失敗に終わります。

しかも多くが捕虜になったというおまけつきです。

第六回は1228年、フリードリヒ2世が行いますが、彼はその前から十字軍遠征に消極的でした。

ローマ教皇にうるさく言われてしぶしぶ行ったという感じです。

なんならしぶりすぎて破門された状態で行ってます。

そんなフリードリヒ2世は、第三回十字軍で溺死したフリードリヒ1世の孫です。

そしてとても有能で、アラビア語もできるという秀才。

彼は、イスラム教側のスルタン・アル=カーミルと交渉をし、1229年にヤッファ協定を結びます。

10年の休戦と、イェルサレムの3分の2をキリスト教側に渡すという取り決めに成功するのです。

戦わずして、交渉で目的を果たしたフリードリヒ2世。

ところがなぜかローマ教皇から怒られます。

相手を殺さずして奪回とは言えない、すべてを奪え、ということらしいです。

フリードリヒ2世は「玉座の上の最初の近代人」と後年言われるようになりました。

わざわざ戦争や殺戮を行わなくても、交渉で目的が達成できるのならそれが一番、という近代的発想をこの当時から実践していたという理由からです。

そう、時代がまだ彼に追いついていなかったのです。

さて、ここで世界史を大きく変える出来事が起こります。

それは、モンゴル帝国です。

ワールシュタットの戦いでヨーロッパ世界も制圧しかけたモンゴル帝国でしたが、この戦いの直後にオゴデイが崩御したためこれ以上の西進は止まりました。

実はヨーロッパだけでなく、イスラムのセルジューク・トルコもモンゴルに苦しめられていました。

これはチャンス!と思ったのか、時のローマ教皇インノケンティウス4世はモンゴル帝国軍を十字軍として認定しようとモンゴル相手に使節団を送ったりしています。

モンゴル側からするとなんの話だってことですが。

もちろん無視ですし、歴史的にモンゴルが十字軍として認められたというのもありません。

さて、話は戻りますが、あと2回の十字軍を確認しておきましょう。

第七回十字軍は1248年~1254年にかけて行われましたが、エジプト侵攻で惨敗。

フランスルイ9世が捕虜になる事態に。

そして最後の第八回十字軍は1270年に行われました。

懲りもせずまたルイ9世が行っています。

結局、彼がチュニスで攻撃中、疫病にかかって死んだことで終わりを告げます。

1291年にマムルーク朝がアッコンを攻略して十字軍国家は全滅。

ここに、壮大な十字軍の歴史は終わりました。

イスラム教側からしたら、何度も何度もやってくるただの侵略です。

十字軍がくるまで、イスラム教側の支配でユダヤ教徒もキリスト教徒も秩序をもって共に暮らしていたのに、余計なかき乱しをしてきた厄介な軍団だ、と思われていたことでしょう。

実際、彼らからすると十字軍なんて名称ではなく、「フランク族の侵入」というような言い方をされていたようです。

意味があったのかなかったのか、その目的は後半にかけて不明瞭にはなったものの、交易や文化の移動が盛んに行われることになったという意味では、特にキリスト教側からすると大きなメリットだったと考えられます。

十字軍遠征は意外と自分勝手な理由だったんだね。

今の時代と違うとはいえ、残虐行為や他宗教への不寛容はちょっと考えものだね・・・

結果的にイスラム世界と触れることで、古代ギリシア時代の哲学や文化がヨーロッパに逆輸入され、後に暗黒の中世から脱出する流れに繋がっていったのです。

参考書籍

キリスト教と戦争ー「愛と平和」を説きつつ戦う倫理|石川明人著|中央公論新社

傭兵の二千年史|菊池良生著|株式会社講談社

真実の世界史講義中世編|倉山満著|株式会社PHP研究所

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