ケープタウンは誰がつくった?オランダとイギリスの覇権争いの歴史

南アフリカ共和国にある、ケープタウンという場所。

大航海時代といわれた頃、このアフリカの大地にケープタウンを建設したのはオランダ人でした。

オランダの黄金期といえば17世紀。

元々は神聖ローマ帝国に、その後スペイン=ハプスブルク家に統治されていた場所でしたが、16世紀半ばに北部13州が独立。

スペインは独立を認めなかったようですがオランダはオランダ総督が治める国家となり、中継貿易で成功を収めました。

しかし、イギリスがその後覇権国家として台頭してくる中で両者は衝突し、オランダは徐々に勢力を弱めていきます。

そんなオランダの歴史の中で、ケープタウンが建設されています。

さて、なぜアフリカのケープタウンを築いたのか。

その歴史を簡単にみてみましょう。

もくじ

オランダ東インド会社の「東」ってなに?

東インド会社と聞くだけで、多くの人はおおよその時代をイメージできるのではないでしょうか。

ところで「東」インド会社なんて名前、ややこしいですよね。

これってインドの東側なのでしょうか。

当時、西欧を中心に世界を考えたとき、コロンブスが死ぬまで思い込んだ「インド」の地はアメリカ大陸だったことは、我々も知っています。

あろうことかコロンブスのせいで「西」インド諸島になってしまった地は、そのまま名称が残り、さらにインドに到着したと思い込んでいたわけですから「西」インドの名はそのまま訂正されることなく残ってしまいます。

でも本来「インド」に到達したわけではないのです。

では、本物(?)のインドおよびその近隣地域はどうしたらいいのか?

「西」があるんだから「東」としておこう、ということで、西欧を中心にして東西のインドの名が誕生することとなりました。

ややこしいことをしてくれたな、と思いますがこれを覚えておくしかありません。

当時の「東インド」とは、現在のインドネシア、フィリピン、マレーシア、シンガポール、ブルネイなどを含むインドおよび近隣地域を指します。

さて、そんな東インドにオランダ商船は進出していきました。

乱立する貿易・商社会社をまとめて設立されたのがオランダ東インド会社でした。

そしてこの東インドへ向かう航路は、西ヨーロッパから出て、南アフリカを回っていくルートでした。

まだ今のようにスエズ運河は出来上がっていませんからね。

そんな中、東インド航路の補給基地建設を検討するため、ヤン・ファン・リーベックが登場します。

彼は一度航海の途中で、座礁したオランダ船の乗組員を救助した経験があります。

その場所こそがケープの地周辺であり、彼はそこが補給地として適していることに気づきます。

1652年、オランダより約80名の人々を引き連れてケープの地に到着したのです。

ケープ開拓からの繁栄

到着したはいいですが、ゼロから作り上げていくわけですから大変なことだったと思います。

食べ物も必要ですし、住む場所も確保しなければなりません。

当然、他国も南アフリカルートを辿るわけですから防衛の準備もしなければなりません。

こんなの、途中でめげてもおかしくありません。

ところがヤン・ファン・リーベック、不屈の精神でこれを乗り切るどころか、オランダ東インド会社よりこのケープ半島の地に土地を与えてもらうことに成功し、現地との自由な取引をしていいとの承諾も得たのです。

もちろんオランダ東インド会社を通しての取引になることは前提ですが、権力者でも貴族でもない人が、土地をもらって会社の認める商売特許をもらうなんて異例です。

規模が大きくなってくると奴隷も輸入され、安価な労働力で農作物を生産し、経営も安定するに至るのでした。

ところが、いびつな形で繁栄した場所には反動がつきものです。

ここから争いの歴史が始まっていきます。

人種問題の勃発

そもそも現地人がいたところにオランダ人が入ってきたわけです。

さらに奴隷を連れ込んだということで、年月が経つと白人と奴隷、白人と現地人の混血が増えるのはあたりまえです。

1707年にオランダ東インド会社は白人男性と現地女性の結婚を禁止します。

でも時すでに遅し、という感じですよね。

18世紀初め、ケープには約700人の会社従業員のほか、約1600人の入植民がおり、さらに約1100人の奴隷と地元の牧畜民がいたという。

「改訂新版新書アフリカ史 株式会社講談社」より引用

この先、オランダは覇権国家から没落の道へ進んでいきます。

その原因となったのはイギリスの台頭であり、イギリスと戦った4回の英蘭戦争でした。

その第一次英蘭戦争は1652年に勃発しています。

ヤン・ファン・リーベックがオランダ人を率いていケープの地にたどり着いた年と重なりますね。

第一次英蘭戦争 1652~54年

イギリスではクロムウェルが枢機卿として支配していた頃です。

彼は航海法を制定し、イギリス有利の法律でオランダを締め出します。

これによりオランダと緊張が高まり、ついにドーバー海峡沖で両国の艦隊が衝突しました。

このときは引き分けといったところでしょうか。

とはいえ、オランダ側の被害は大きかったようです。

第二次英蘭戦争 1665~67年

ここではオランダが巻き返しています。

戦いもそうですが、航海法の改定を迫り、オランダが有利となるよう変更が加えられました。

そのかわり、オランダが当時もっていたニューアムステルダムは、イギリスに割譲されます。

これがのちのニューヨークとなるのですが。

第三次英蘭戦争 1672~74年

とはいえ、時代の波にのり、世界屈指の海軍を揃えたイギリスです。

勢いは完全にイギリスにあり。

この第三次ではなんとオランダ本土上陸を目指して艦隊を向けます。

どうにかこうにか蹴散らしたオランダですが、負けてはいないものの満身創痍、ギリギリ国土を保ったというところでしょうか。

この戦争の被害は大きく、また、立て直すだけの力がオランダには残っていなかったのかもしれません。

明らかに、海上貿易にも陰りが見え始めたのです。

第四次英蘭戦争 1780~84年

ついにこの戦争でオランダは惨敗。

経済的混乱も相まって、オランダ共和国は崩壊しました。

こののち、オランダは統一国家「バタビア共和国」が成立します。

「オランダ」の名が一時的に無くなってしまうんですね。

これ、1806年まで続きます。

オランダの名前がまた出てくるのにはナポレオンの弟ルイが登場するまで待たなければなりません。

ただし、これもフランスに併合されるのですが。

その話はまた別の機会に。

ところで、オランダ共和国が崩壊したってことは、オランダ東インド会社ってどうなったのでしょうか?

実は1794年に破産宣言をし、1798年に解散。

約200年近くにわたる歴史に幕を閉じたのです。

そして狡猾なイギリスはこれを機にケープを占領。

オランダにはケープを守る力など残っていません。

主役不在で争われたケープの地は、英仏の戦いでした。

フランスに渡してたまるか、という思いからイギリスは英仏戦争に勝利し、ケープはイギリス領となるのです。

ケープの地はイギリス領へ

さて、この地が堂々とイギリス領になったのは1814年です。

瞬く間に、イギリス式の諸政策・制度が整備されました。

もちろん、イギリスから移民も送り込まれます。

ということは、またも人種の混乱が想定されます。

現地住民、奴隷として運ばれてきた黒人、オランダ系住民、そこに支配層としてのイギリス人。

問題が起きないわけがないですよね。

これが後のアパルトヘイト政策を生む元となっていくわけです。

オランダ住民は別名ボーア人と呼ばれています。

ケープ植民地がイギリスに渡ったいま、彼らは東へと移動していきました。

イギリスもこの動きに警戒を強めており、攻勢をしかけます。

そんな中、ボーア人たちは命からがら東へ進み、1852年にはトランスバール共和国やオレンジ自由国を建国するのです。

しかし忘れてはいけないのは、現地住民です。

ケープから東へ移動するのはわかりますが、東には東で現地住民がいます。

この先の争いが複雑化していくのは目に見えています。

さらに厄介なことに、1867年、オレンジ自由国内の地でダイヤモンド鉱が発見されました。

1886年にはトランスバール内でも金鉱が発見されます。

イギリスがこれを黙ってみていると思いますか?

苦戦しながらも1901年にトランスバールもオレンジ自由国もイギリス王領にしてしまいます。

もちろん戦争で。

南アフリカでかろうじてアフリカ人が保った地はスワジランド(現エスワティニとバストランド(現レソト)のみで、その地もイギリスの保護領扱いとしての地でした。

こうして南アフリカの地は完全にイギリス支配となったのです。

でも、何一つ人種問題は解決していません。

イギリスは南アフリカのボーア人による政治支配は認めたものの(その方が都合がよかったから)、経済と政治が混沌とするにつれて、イギリス人とボーア人と現地アフリカ人の関係は悪化の一途をたどります。

中でもアフリカ人の差別は苛烈を極めました。

これがアパルトヘイト政策です。

1924年にはすでに構想されていた政策ですが、これが表立って言われ始めたのは1948年の総選挙のときでした。

世界が第二次世界大戦後、帝国植民地時代からの脱却の機運が高まっている頃、逆行して人種隔離政策を推し進めたのが南アフリカ共和国だったのです。

白人の利権を守り、アフリカ人を徹底的に差別して支配する。

法律まで作ってしまうのですから異常としか言いようがありません。

この政策には、オリンピックへの参加不可という世界からの非難も出てきます。

しかし、アパルトヘイトの根幹法が廃止されたのはいつだと思いますか。

1990年まで待たなくてはならなかったのです。

多くの犠牲を伴い、ようやく新生南アフリカがスタートしたのは、マンデラ政権が誕生した1991年12月でした。

あまりにも長くて暗い、理不尽な歴史を、南アフリカは辿ることとなってしまいました。

ヤン・ファン・リーベックがアフリカの地に着いてから339年経って、ようやくアフリカ人による政治が始まったのでした。

参考文献

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