ニューヨークと自由の女神の歴史

アメリカ史☆☆☆/オランダ史☆

世界で最も有名な都市の一つ、アメリカのニューヨーク。

そして、ニューヨークには有名な自由の女神像があります。

アメリカ大陸が新大陸として発見されてから、ニューヨークはどんな歴史を辿っていったのか、一緒にみていきましょう。

自由の女神は誰が建てたのかも気になる!

もくじ

ニューヨークの前身、ニュー・アムステルダム

ヨーロッパの人々が現在のニューヨークの地にやって来たのは、1524年だと言われています。

コロンブスが航海に出たのが1492年ですから、それから32年後ですね。

実は、最初にニューヨークの地に上陸したのはイタリア人です。

1524年4月17日、フランス王フランソワ1世の命令により、イタリアの商人で探検家のジョヴァンニ・ダ・ヴェラツァノという人物が北米探索に出航しました。

そしてニューヨーク湾周辺を探索し、現在のニューヨーク港にあたる場所に上陸します。

当時、この地に住んでいたのはインディアン(ネイティブ・アメリカン)です。

以降、ヨーロッパの人々による調査が進み、約100年後にはオランダ人が現地のネイティブ・アメリカンから土地を購入します。

この時代はオランダが海洋国家として覇権を握っていました。

こうして、マンハッタン島の南側がオランダ領ニュー・アムステルダムとして誕生します。

1626年にはアムステルダム交易所も建設されています。

毛皮貿易で発展

ニュー・アムステルダムの地ではどんなことが行われていたのかな?

何か魅力がないと、植民地化にはしないもんね。

実は、オランダ人によってビーバーなどの毛皮貿易の拠点になっていたんだよ。

ビーバーといえばカナダの動物と思い浮かべる人が多いと思いますが、ニューヨークの地で毛皮貿易として名前が出てくるとは意外ですよね。

オランダ人はヨーロッパ製のビーバーの毛皮加工に使う金属製品を持ち込みました。

ニュー・アムステルダム近郊で捕れたビーバーは、ヨーロッパ内で高価な毛皮として売れました。

また、中国ではシルク(絹)と交換できました。

一方、元々その地にいたネイティブ・アメリカンとは、彼らの資金源である貝殻玉の貿易仲介などを行うことではじめの頃は双方共に良好な関係が築かれたと言われています。

しかし、貝殻玉の市場価値を見いだしたオランダ人は、高度な技術を使い自分たちで製造を始めました。

そのうち、ネイティブ・アメリカンをマンハッタン島から追い出していきます。

乱獲によりビーバーはニューヨークからいなくなってしまい、疫病も重なってこの地からネイティブ・アメリカンも激減してしまいます。

そして次の覇権国家として登場するイギリスがこの地に目をつけはじめるのです。

ちなみに、現在のニューヨーク州が赤枠のところ、その中の少し先端につきだした小さな島がマンハッタン島です。

オランダとイギリスの対立

ヨーロッパ世界は海上の覇権争いの真っ最中。

イギリスとオランダ間で戦争が起こります。

ニュー・アムステルダムの地もイギリスvsオランダの取り合いが続きます。

1664年8月、町を占領するために4隻のイギリス軍艦がニュー・アムステルダム港に到着しました。

さぞかしオランダ人が抵抗するだろうと思いきや、実際はマンハッタン島にオランダ人はそんなに多くいませんでした。

多様な人種、たとえばデンマーク人やユダヤ人など、オランダに限らず多くの人たちが入植していたのです。

そういったこともあって、イギリス人が彼らに商業的権利を保持することを許可すると約束したとき、彼らは戦いなしで降伏しました。

イギリスは北米航路を手中に収め、1664年、ニュー・アムステルダムはイギリスの植民地になり、ニューヨークと名前を変えます。

このとき、公用語もオランダ語から英語に変わりました。

1665年6月12日にはトーマス・ウィレットを初代市長に任命。

ところが、オランダもこのまま黙ってはいません。

1673年には再びオランダが奪い返し、ニューオレンジと改名します。

しかしそれも束の間、1674年のウエストミンスター条約により、この地は以降恒久的にイギリスの領地とされます。

その後、アメリカが1776年に独立してからもこのニューヨークという名前は残っていくのです。

ちなみに、「ニューヨーク」の名前の由来は、イギリスの国王ジェームズ2 世が元々ヨーク公(The Duke of York)だったときに占領したことから、その名を冠してNew Yorkと呼ばれるようになったんだよ。

独立100年を記念した自由の女神像

ヨーロッパの植民地だったアメリカが独立し、それから約100年後の1886年10月28日。

自由の女神像の除幕式が行われました。

この像は一体どういった経緯で創られたのか?

答えは、フランスからの贈り物だったのです。

自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立100周年(1876年)を祝って、独立を支援したフランスから、変わらぬ友好のしるしとして贈呈されました。

フランスが登場するのはなんだか意外な感じだな。

寄贈を提案し寄付を呼びかけたのは、フランスの法学者であり政治家のエドゥアール・ド・ラブライエです。

彼は彫刻家のフレデリク・バルトルディに1874年に設計を依頼しました。

女神像の顔はバルトルディの母親、手はバルトルディの妻がモデルになっているといわれています。

1884年にフランスのパリで仮組みされたあと、214個に分解されてアメリカに運ばれました。

骨組みは鉄製で、表面は銅板で覆われています。

当初は赤茶色だったようですが、銅が徐々に酸化したことで現在のような緑色になっています。

1924年にアメリカ合衆国国定記念物に登録され、1984年には世界遺産に登録されました。

自由の女神像と聞くとニューヨークしかイメージにないかもしれませんが、実はフランスのパリ市内に結構いたりします。

セーヌ川にかかるグルネル橋近くにある自由の女神像は、フランス革命100周年を記念して、パリに住むアメリカ人が贈ったとされています。

また、リュクサンブール公園のものは、ニューヨークに贈られた自由の女神を作る準備のために製作された像です。

他にも、国立工芸技術博物館の入口と礼拝堂に立っています。

オルセー美術館内でも見られるようなので、フランスで自由の女神像を探すのも楽しいかもしれませんね。

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