ネッケルはスイスのジュネーブで生まれ、パリで銀行家として成功した人物です。
ブルジョワであり、身分としては「第三身分」でした。
そんな彼に目をつけたのが、ルイ16世です。
借金だらけで火の車のフランス国。
1777年、ルイ16世は、スイスの金融にも広いコネクションをもつネッケルを財務長官に任命します。
ネッケルはまず財政を立て直すため、「徴税請負人」の不正横行にメスを入れます。
徴税請負人・・・徴税権と引き換えに国家にお金を貸すことを行っていた者たち。通常、国(当時で言ったら国王)が人々から税金を徴収する仕組みができていればいいが、当時は徴税するのにも時間がかかったため、徴税請負人が実質的に徴収を受け持っていた。また、この徴税請負人は裕福な者がなることが多く、すぐにお金を借りたいフランス国からすると、徴税請負人が人々から税を徴収する前に先に借りることができるメリットがあった。その代わり、徴税権は請負人に与えたるので、徴税請負人は不正を働くことができてしまう。例えば、決められた税金以上に取り立てる、といったこと。また、その金をもってさらに別の金儲けができる仕組みができていたのです。
さて、この徴税請負人制度にメスを入れたらどうなるか・・・簡単に察しがつくよね。
徴税請負人が国家にお金を貸すことを禁止し、さらに不正を行わないよう監査制度を作ったのです。
これには徴税請負人(主に貴族)が猛反発します。
彼らはネッケルを悪者として扱い、デマを広めて抵抗したのです。
よそ者がフランスを乗っ取ろうとしている!
フランスの金を巻き上げて、自身が裕福になろうとしている!
などが書かれた薄い冊子のパンフレットが多数発行され、市中に出回ったのです。
せっかく改革をしようとしているのに、ネッケルが気の毒だね・・・
しかしここで負けるネッケルではありません。
彼は自身の身の潔白を証明しようと、とんでもないことをします。
それは、「国王への報告書」です。
この報告書かれていたこと・・・それは、フランスの国家財政の内訳でした。
これをなんと市民に公表したのです・・・!
今でこそ国家財政は誰もが知ることができますが、当時はそんなもの、秘密のベールに包まれていましたし、公表する必要もありません。
人々もそれを知る術もなければ、おそらく知りたいなんていう発想もなかったかもしれませんね。
とにかくこれ、とんでもない衝撃をフランス市民に与えることとなります。
結果、王侯貴族にまわっている金はこんなにも多く、自分たちに関係する金はこんなにも少ないのか。
そして特権階級は税金も払わずこんなに贅沢している。
自分たちは重税に苦しめられているのになんの恩恵も受けることができていない。
この事実を市民は知るのです。
そしてこの公表をきっかけに、フランス市民はネッケルを支持しはじめます。
ところがこれとは反対に、貴族たちからは大きく反感を買います。
立場を悪くしたのはルイ16世も同じです。
ネッケル、1781年5月に辞任に追い込まれてしまいます。
しかし、結局はその後、何をしても財政は立て直すことができません。
こうして1788年8月、再びネッケルを起用しようとルイ16世は復職を依頼します。
市民からも圧倒的な支持を得て、改革への機運がさらに高まりました。
さて、その後は免税特権がある第一身分と第二身分に課税をするよう提案します。
そしてこれに反発する第一身分と第二身分は、フランス革命の前編でお話しした通りです。
結局、貴族からまたもや反感を買い、マリー・アントワネットもネッケルを罷免するようルイ16世に迫ります。
そんな噂を聞いた市民は、ヴェルサイユ宮殿に集まり抗議します。
あまりに激しい抗議に、軍隊の招集をすべきだと、反改革派貴族たちはさらにルイ16世に迫ります。
これにNOを言えなかったルイ16世は、ネッケルも罷免してしまいますし、軍隊もヴェルサイユ宮殿に集結させてしまったのです。
これにフランス市民は反応します。
ネッケルを罷免して、軍隊も配置した。
今度は自分たちが弾圧されるかもしれない、と。
俺達も武器をもって戦いに備えなくてはならない!!!
これが、バスティーユ牢獄襲撃に繋がりました。
市民から絶大な人気を得たネッケルは結局財政改革をやりきるこができず、生まれ故郷のジュネーブに戻ったのでした。
国王主導で、ネッケルの財政改革がうまくいくことができたなら、フランス革命が起こることはなく、フランスの歴史は大きく変わったことでしょう。
ネッケルが与えた「国家財政」のインパクトは歴史を大きく変えたと言っても過言ではありません。