【前編】なぜバスティーユ牢獄が襲撃され、なぜルイ16世の処刑は実行されたのか?

フランス史★★★

市民が立ち上がって王政を倒し、人権宣言をしたのがフランス革命だ!

と、市民革命だけを覚えていては本質が見えてきません。

そもそも、なぜ市民は立ち上がったのか?

その起点となったバスティーユ牢獄襲撃ですが、なぜ牢獄を襲撃したのか?

バスティーユ牢獄襲撃は1789年ですが、ルイ16世は1793年に処刑されています。

この4年の間王政はどうなっていたのか?

そもそも、ルイ16世はなぜ処刑されてしまったのか?

・・・深く考えていくほど、フランス革命って結局どんな革命だったのか、思い出せる人は少ないのではないでしょうか。

市民が立ち上がって頑張った!革命成功!王様不要!バンザイ!

・・・というわけではありません。

ここは専門書じゃないので細かいところまでは言及しませんが、簡単に学校でならったはずの内容を、思い出していきましょう。

もくじ

フランス財政の逼迫 財政立て直しのための改革を!

まずはここから。

ルイ16世はある意味すべてのツケを払わされた、損な人と言えるでしょう。

実は過去からの度重なる戦によりフランス財政は火の車でした。

過去からの戦とは・・・

それはルイ14世、2つ前の王様に遡ります。

ルイ14世といえば「太陽王」「絶対王政」「ヴェルサイユ宮殿」、こういった言葉が思い浮かぶでしょう。

そうです、絶対王政の絶頂期に君臨した王様でした。

しかし、このときルイ14世は多くの戦争にも手を出しています。

それもなかなか勝てていない戦です。

戦争にはめちゃくちゃお金がかかりますが、それを回収しきれないのであれば借金は膨れ上がっていくばかりですよね。

こうして、その後のルイ15世の時代も財政問題は解決できずにルイ16世に引き継がれることとなりました。

フランス革命前夜のフランス王室の収入は年間約5億リーブル、累積赤字は約45億リーブル。負債利子だけで年間約3億リーブル、この他、特権階級の年金支払いに約2億5千リーブル、まさに財政破綻(デフォルト)寸前の状況にありました。

経済を読み解くための宗教史 宇山卓栄 P272〜P273引用

ちなみに、ルイ16世はフランスがイギリスに負け続けた過去の戦を払拭すべく、アメリカ独立戦争でアメリカがイギリスに宣戦布告した際、ワシントン側について参戦(支援)しました。

これはルイ16世の入念な下準備もさることながら、武器、食料等の補給路を確保したことも大きかったようで、見事勝利しました。

イギリスに一矢報いてやった感じですね。

しかしフランスにとっての戦争勝利のうまみは特段なかったようです。

お金を取れたら財政も少しはましになったかもですが、それもなかったため、結局戦費がかさんだだけでした。

アメリカ独立後100年を記念して贈られた自由の女神には、アメリカとフランスのこういった歴史があるからなんですね。

三部会の開催 175年振りに皆の意見を聞こう!

さて、そんな中、ルイ16世は財政難をどうしようか考えます。

財政難に加えて当時は飢饉が起きており、平民はまともな食事も取れていない状況が続いていました。

ちなみにルイ16世は心優しい王だったと言われています。

知識にも富み、どちらかというと市民に寄り添い話を聞くタイプだったとか。

この優しさと優柔不断な性格が、この後のフランス革命と処刑につながってしまうのですが・・・。

そんなルイ16世は、当初、改革を容認していました。

いまの制度を維持しようとか、保守的な考えではなく、よりよい社会を形成するために改革は必要だと考えていたのです。

ルイ16世は、スイスから銀行家ネッケルを呼び、財政立て直しにメスを入れます。

まずは特権階級から税収を得て財政改革をしよう、と。

しかし、これには特権階級が猛反発!!!!!

そりゃそうなりますよね。

つまり、税金を払わなくてよかった、ということです。

それが「税金を払いなさい」となると、反発必至でしょう。

ところで、特権階級ってなんでしょうか?

誰のことを指すのか?

答えは、聖職者(いわゆる僧侶)と貴族です。

フランス内人口の約2%を占める彼らが、民衆を支配して富を得ているわけです。

特権階級たちは、課税を求めてくる王の特権を制限しようと、1788年、175年ぶりに「三部会」の招集を政府に要求したのです。

彼らは自分たちの発言力を高め、王の権力を弱めようとしたのですね。

絶対王政だったルイ14世の時代は、国王の権力がすごかったので、三部会なんて必要ないわけです。

ゆえにルイ14世治世前後の、王権が強かった175年間は三部会など必要なかったのです。

そういえば、そもそも三部会ってなんでしょう?

三部会とは・・・

第一身分である聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される身分制議会

各身分が同等の議決権をもっているので、特権階級である第一身分と第二身分が組めば自分たちの意見が余裕で通るだろうと考えていました。

ところが時代は175年前とは違います。

背景には啓蒙思想の広まりと、ブルジョワジーの台頭があることを知っておかなければなりません。

啓蒙思想:この時代はモンテスキューやヴォルテール、ルソーら啓蒙思想家が活躍しはじめます。特にルソーの人間不平等起源論や社会契約論において、すべての人の平等「人民主権論」を主張したことはフランス革命に大きな影響を及ぼします。簡単に言うと、宗教世界や神の世界からの脱却ですね。この頃は科学の発展もありました。人間や個人が主となる考えが浸透していきます。

ブルジョワジー:商人や金融業者などの有産市民層。彼らは全体の約10%を占める人口割合で、拡大していきます。つまり、第三身分の中で代表として出ているのはこのブルジョワジーです。本当の貧困層は広い意味で第三身分ですが、第三身分の代表などにはなれません。

1789年5月5日に三部会は開催されましたが、事態は思わぬ方向に進んでいきます。

第三身分の主張 身分ごとではなく各人に票を与えよ!

三部会で第三身分は、議決権が身分ごとに1票であることに反発します。

まさに啓蒙思想が影響していますね。

そしてブルジョワジーが力をつけてきた証拠でもあります。

また、実は第一身分も第二身分も、全員が一枚岩ではありません。

この身分に所属していても、権力や富を得ているのは一部の人間だけです。

そのため、第三身分に肩入れ、合流するものもいました。

第三身分は6月10日に独自の「国民議会」発足を要求し、6月17日には実際に「国民議会」を称して独立する動きを見せます。

また、不満を抱いている第一身分や第二身分にも声を掛けます。

ルイ16世は集まっていた彼らの会議部屋を閉鎖したため、彼らは急遽室内球戯場に場所を変えて、「憲法制定まで解散しない!」と誓ったのです。

これがいわゆる、「球技場の誓い」です。

王は市民たちの総意の上に、きちんとした政治を反映すべきだ、ということを求めているのです。

これは風向きがまずい、と思いますよね。

この第三身分の反発、国民議会の要求はルイ16世にとっても思わぬ展開だったようです。

わたしは人々の声を聞き、改革に着手していこうと思っているし、実際にしてきた。

なのになぜ、君たちは私の言うように健全な話し合いではなく紛糾させるようなことをするのか・・・。

各身分で話し合いをし、討議してほしい。

ルイ16世は三部会参加の全議員の前で、このようなことを演説しました。

国王は、部会別に討議・採決をしてほしかったのです。

1789年6月23日、これがいわゆる、国王親臨会議です。

しかし、結局第一身分の多くと第二身分の一部が第三身分に同調したため、ルイ16世は議会(=国民議会)の開催を認め、特権階級たちにも参加するよう促しました。

その後、国民議会は正式に「憲法制定国民議会」と改称して憲法制定に着手していきます。

この先、ルイ16世は「自らが先頭に立って改革を進めたい」という当初の理想からかけ離れていくこととなります。

そして、これまで通りの体制を維持したい貴族たち(反改革派)と、第三身分の台頭(改革派)の間で揺れ動くこととなり、次第に国王の権威は失われていきます。

同時に、ルイ16世は生来の優しさゆえに優柔不断に拍車がかかっていくのです。

バスティーユ牢獄の襲撃 武器を取れ!フランス革命勃発!

こんな状況に我慢ならないのが保守派の貴族や国王の側近たちです。(つまり、反改革派の人々)

もっと強硬な態度を取るべきだ!とルイ16世に迫ります。

保守派の貴族や国王の側近たちが、ルイ16世にヴェルサイユに軍隊を集結させ国民議会を好き勝手させないようにすること、そしてネッケル罷免を進言したのです。

そしてルイ16世はこれに従ってしまいます。

彼自身の強い意志はなく、周りや妻であるマリーアントワネットに進言されるがまま・・・といった感じでしょう。

優柔不断さが出ていますね。

1789年7月12日、「ネッケル罷免」のニュースが流れます。

ネッケルは先ほども少し出てきましたが、財務総監で、改革派です。

改革を求める市民にとって、非常に人気のある大臣です。

そんな彼を罷免したということは、これから何が起きるのか・・・?

あの改革派のネッケルを罷免して、まさか国会も解散するんじゃないだろうな?

軍隊までヴェルサイユに集結させるなんて、ここパリを制圧するつもりか?

また俺らは虐げられる存在になるなんて、耐えられない!!!!!

実はこれが市民たちのバスティーユ牢獄襲撃につながる引き金となったのです。

人々は自分たちも武器をもって防衛、戦わなければ!という気運が高まります。

7月14日の朝、人々はまずアンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ、3万2000丁の銃と24門の大砲を手に入れた。それから、さらなる武器弾薬を求めて、人々はバスチーユ要塞に殺到した。アンヴァリッドからバスチーユまでは、約4キロだった。

「物語フランス革命 バスティーユ陥落からナポレオン戴冠まで」安達正勝著 中公新書

バスティーユ牢獄に武器や大砲が保管されていることを知った人々は、そこへ向かいます。

この頃のバスティーユ牢獄(元々は要塞)は、牢獄といってもたいした犯罪者は収容されておらず、当時は7人しか囚人はいませんでした。

1789年7月14日、バスティーユ牢獄は、司令官ローネー侯爵が門を開け降伏したことで陥落しました。

ローネーは市民の手で処刑されます。

そしてこのバスティーユ牢獄の陥落は、フランス全土が革命の機運を高ぶらせるきっかけにもなり、人々に大きなインパクトを与えたものでした。

これ以降、フランス革命は怒涛の勢いで進んでいきます。

しかしまだ、この時点でも「打倒国王」とはなっていません。

むしろ、国王!パリへ来てください!!と、ヴェルサイユ宮殿1から連れ出し、パリのチュイルリー宮殿へと拠点を移させたのです。

さて、この後国王一家とフランスはどうなっていくのか・・・・?

続きは後編へ。

ちなみに、7月14日は現在、パリ祭りの日になっています。

フランス人にとっての建国記念日のようなものですから、この日はパレード行進に夜遅くまで開催されるダンスパーティーなど、祝祭の日として人々に親しまれています。

後編はこちら

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  1. ヴェルサイユは、パリの西南約20kmに位置します。 ↩︎
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