今回は教科書P135~136に掲載されている「スラブ人と周辺諸民族の自立」について詳しくみていきたいと思います。
※要約は最後に記載してます。
教科書(P135~136)
カルパチア山脈の北方を原住地とするスラブ人は6世紀になると大移動前にゲルマン人が住んでいたビザンツ帝国北側の広大な地域に急速に広がった。
詳説世界史B改訂版(山川出版社)
まず、「カルパチア山脈」の位置を把握しておきましょう。
カルパチア山脈は、主にスロバキア、ポーランド、ウクライナ、ルーマニアと、周辺のチェコ、ハンガリー、セルビアにまたがっていて、全長約1500kmといわれています。
なかなか多くの国をまたがっていますね。
地図でいうとこのあたり↓(地図をひいて見てみると、周りとの位置関係がよくわかります)
続いて、「スラブ人」ですね。
スラブ人はもともと、カルパチア山脈北部を原住地としていました。
スラブ語系の民族であり、これはインド=ヨーロッパ語族の1つに分類されます。
その後、居住地によって東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)、西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)、南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられるようになっていきます。
ゲルマン人の大移動で空いた場所に、急速に広がったようですね。
ゲルマン人は、今のドイツあたりにいた民族ですが、ローマ帝国時代には軍人として重用されていました。
そんなとき、東からやってきたフン族に押し込まれる形で、ゲルマン人は西へ大移動していきます。(375年)
この頃には弱体化が著しかったローマ帝国。
ゲルマン人の大移動に抵抗ができず、ただ押し込まれる形となってしまいます。
また、ゲルマン人は元々軍人としてローマ帝国内で力をつけていたこともあり、一気にローマ帝国の地を支配していくこととなりました。
これは後の西ローマ帝国滅亡に繋がっていきます。
大きくわけて東スラブ南スラブの諸民族はビザンツ文化とギリシャ正教、 西スラブ人は西洋文化とローマカトリックの影響を受けつつ、自立と建国の道を歩んでいった。
詳説世界史B改訂版(山川出版社)
「ビザンツ文化」とは、東ローマ帝国であるビザンツ帝国の文化を指しますね。
元々は東ローマ帝国でしたが、東西ローマ分裂後、その地の呼び名から、後にビザンツ帝国と呼ばれるようになります。
同時に、東西ローマ帝国の分裂は、キリスト教の考えも二分していきます。
西は後々、ローマ教皇を頂点とした「ローマ=カトリック」になりますが、東は権力者=聖職者という政教分離の形をとらない「ギリシャ正教」が広がっていきます。
東・南スラブ人と西スラブ人では同じキリスト教徒だったとしても、教義や世俗の考え方が異なるのはこういったローマ=カトリックなのかギリシア正教なのかによる違いの差なんですね。
ドニエプル川中流域に展開した東スラヴ人 (ロシア人ウクライナ人など)が住むロシアでは9世紀にスウェーデン系ノルマン人がノヴゴロド国、ついでキエフ公国を建国。まもなく先住民に同化してスラブ化した。
詳説世界史B改訂版(山川出版社)
「ドニエプル川」は、ちょうどウクライナの首都キーウを流れる大きな川です。
「スウェーデン系ノルマン人」とは、ヴァイキングの人々です。
彼らが入ってきて、ノルマン人が支配するかと思いきや、先住のスラブ人たちと同化していくんですね。
スラブ人たちって不思議で、彼らがいる一帯はちょうどいろんな民族が入り乱れる地域なんですが、なぜかスラブ人は同化する側(他民族が同化される側)で残っていくんです。
詳しくはこちらを参照ください↓
10世紀末 ウラジミール1世は周辺諸民族とたたかって領土を広げ、キエフ公国に最盛期をもたらした。彼はギリシア正教に改宗してこれを国教とし、ビザンツ風の専制君主制をまねたので 以後ロシアは西欧とは別の文化圏に入ることになった。
詳説世界史B改訂版(山川出版社)
キエフ公国一帯は、ひとつにまとまっていたというより、それぞれの地に有力な支配者たちがいて、それをまとめあげる形で成り立ってきました。
そのまとめ役として成功し、最盛期をもたらしたのがウラジミール1世です。
力あるものがまとめる実力主義といいますか、逆に力がないと(力づくじゃないと)まとまらないのがこの地の特長です。
ロシアの地が独裁政治になりやすい理由が、このあたりにあるんですよね。
まとめあげるために国教を取り入れたのもその1つ。
このあたりから、ギリシア正教会を基にしたロシア正教会のルーツが垣間見えます。
以後、ロシアは西欧ヨーロッパと異なる歴史を歩んでいきます。
その後農民の農奴化と貴族の大土地所有が進み、大土地所有者である諸侯が多数分立して国内は分裂した。
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この地の領主や貴族の力が強かったため、農民は個人的に農地を所有することができません。
その後の歴史も、その他の地域では農民の農奴化がなくなっていく歴史を辿る一方で、キエフ公国一帯は農民の農奴化は根強く残ります。
13世紀にバトゥの率いるモンゴル人が侵入。南ロシアにキプチャク・ハン国を建てると、キエフ公以下の諸侯はこれに屈服し約240年の長きにわたってモンゴル支配に伏した。これをロシアではタタールのくびきと呼んだ。
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バトゥはチンギス=ハンの孫にあたります。
1237年にバトゥ率いるモンゴル軍がやってきて、諸都市を次々と陥落していきます。
最終的にキエフが包囲され、陥落したのが1240年です。
そしてヴォルガ川の下流サライを都とするキプチャク・ハン国を建国し、この国は1502年まで続きます。
ちなみに、「タタール」とはロシアやヨーロッパ地域がモンゴル人を呼ぶのに使っていた名称です。
15世紀になると商業都市モスクワを中心としたモスクワ大公国が急速に勢力を伸ば、大公イヴァン3世の時に東北ロシアを統一。1480年にはようやくモンゴル支配から脱した。
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「モスクワ」はこのあたりにあります↓(地図をひいて見てみると、周りとの位置関係がよくわかります)
キプチャク・ハン国支配のもと、キエフ公国に存在していた諸公国たちは税を納めながらその後も存続していました。
そんな中、モスクワ公国が力をつけてきました。
イヴァン3世は、過去のキエフ公国の土地はすべて自分たちの土地だと主張します。
東北ロシアを統一しますが、現ウクライナあたりはそのときリトアニア・ポーランドの支配下であり、その後度々衝突することとなります。
彼は諸侯の力を抑えて強大な権力を握りビザンツ最後の皇帝の姪ソフィアと結婚してローマ帝国の後継者をもって自任し、初めてツァーリの称号を用いた。また彼は農奴を土地に縛り付けて農奴制を強化し、その孫イヴァン4世による中央集権化に道を開いた。
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ビザンツ帝国最後の皇帝はコンスタンティノス11世。
彼の弟の子が、ソフィアです。
イヴァン3世は再婚でしたが、これをきっかけにローマ帝国の後継者であると自負したとか。
真相はわかりません。
後世の者が後付けで権威を示すために創りあげた話の可能性もあります。
なお、ツァーリという称号は「皇帝」を意味し、イヴァン3世が使い始めました。
これは「カエサル」に由来する単語で、ドイツ語ではカイザー (Kaiser)、ロシア語でツァーリ (Царь, Tsar) といいます。
イヴァン4世はツァーリという称号を正式に定めた人物です。
日本では雷帝と呼ばれている人物です。
暴君と言われ恐怖政治を行ったといわれていますが、ひとまずここでは彼が建てた建築物を紹介しておきましょう。
有名な寺院、聖ワシリイ大聖堂です。
要約
ゲルマン民族が375年に大移動をし、フン族の浸入もおさまったその後、ゲルマン民族がいた地(主にビザンツ帝国の北側)にスラブ人が住み着くことに。
スラブ人の地は東スラブ・南スラブ・西スラブと3つに大きく分けられるが、東と南スラブは主にギリシア正教とビザンツ文化を取り入れる一方、西スラブはローマカトリックと西洋文化を取り入れ、両者は異なる文化圏に属することとなる。
東スラブにはヴァイキングが入り込み、ノヴゴロド国→キエフ公国が建国され、スラブ人に同化していく。
これが現ロシアの起源となっていく。
キエフ公国の最盛期は10世紀のウラジミール1世の頃で、より強固なものにするために国教も制定。
しかし領主や貴族の力が強まり、ついにはそれぞれの権力が強くなりすぎて公国内で分裂が進む。
そんなとき、東からモンゴル人が襲来。
あっという間にキエフを包囲され、以後約240年、キプチャク・ハン国の支配のもと時代が進む。
ようやくこの状況を打開したのは諸侯の一人でモスクワをまとめていたイヴァン3世。
彼はモスクワ大公国を建国し、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪を嫁にとり、皇帝(ツァーリ)の称号を使い始める。
その孫イヴァン4世が領土拡大をしていく。