詳説世界史B(改訂版) P220~P222 (山川出版社)
このページに記載されていることをひとことで言うならば、
旧教のカトリック信者フェルディナント2世がボヘミア王になり、新教派を弾圧したらとんでもない宗教戦争が起きちゃった
です。
しかも、旧教VS新教の戦争していたはずなのに、最後にはハプスブルク家VSフランスになっていて気付けば30年も戦争してたじゃん、という始末。
でもこの三十年戦争を終えるウェストファリア条約が、後の近代国家に繋がる画期的な条約だったから意外と大事なポイントなんだってことに気付かされるんです。
では、教科書に沿って詳細を追っていきましょう。
17世紀の危機と三十年戦争
17世紀前半に、16世紀から続いていた経済成長がとまり、ヨーロッパは凶作・不況・疫病・人口の停滞などの現象に見舞われた。17世紀半ばは、経済・社会・政治のすべての領域におよぶ、全ヨーロッパ的規模の危機の時代となった。多くの国で戦争や反乱がおこり それが経済的・社会的な問題をさらに悪化させた。なかでもドイツの危機は深刻で、三十年戦争と呼ばれる外国勢力も介入する大規模な戦乱という形をとってあらわれた。
詳説世界史B(改訂版):山川出版社
まさに暗い影を落とした時代です。
地球は寒冷期に入っており、もともと土壌が豊かではないヨーロッパの土地は寒冷化によりさらに実りが少なくなります。
加えてペスト(黒死病)の蔓延です。
さらに宗教改革によりキリスト教世界は混乱と戦争が絶えません。
どうしようもない時代です。
そこに追い討ちをかけたのが三十年戦争です。
特に戦争の舞台になった土地が今のドイツ地方ですから、三十年戦争が終わる頃のドイツ地方の荒廃はとんでもないものだったと思われます。
神聖ローマ帝国内に大小の領邦が分立していたドイツでは、主権国家の形成が遅れていた。1618年、オーストリアの属領ベーメン(ボヘミア)の新教徒が、ハプスブルク家によるカトリック信仰の強制に反抗したのをきっかけに、三十年戦争が起こった。
詳説世界史B(改訂版):山川出版社
ドイツ内では約300にもなる領邦があったと言われています。
領邦とは、エリアごとに領主がいて、その地域を治めているということです。
それが300もあったということですからなかなかです。
そのあたりを、一応神聖ローマ皇帝が帝国領域に組み入れているという感じです。
そんなもんだから、いつまでたってもドイツはまとまって国家形成を築いていくことができません。
ドイツ帝国ができるのはまだ先ですが、それよりも宗教戦争が目前に控えていました。
フェルディナント2世
このハプスブルク家のフェルディナントくんがボヘミア王になったのち、事件が起きます。
フェルディナントくんはもちろんカトリック教徒。
それもなかなか敬虔なカトリック信者です。
ボヘミア王になったことで、ボヘミアの人々にカトリックを強制し、プロテスタントを弾圧してしまいます。
ボヘミアって、ヤン・フスの宗教改革者がいたところです。
この辺りはプロテスタント信者というか、カトリックへの反抗者が多いんです。
そんなところにカトリック王が弾圧行為をしてきたわけで、これにはボヘミアの人たちも黙ってはいませんでした。
プロテスタント貴族たちは、プラハ城に押しかけ、そこにいたハプスブルク側の政府高官を窓の外に投げ出したのです・・・!!!!!
宗教改革や三十年戦争の詳細はこれを読んでみてね
三十年戦争勃発
この戦争の一つの対立軸は旧教対新教で、スペインは旧教側のハプスブルク家の皇帝を支援し、新教国デンマークはこれとたたかった。傭兵隊長ヴァレンシュタインの率いる皇帝軍が優勢になると、バルト海の覇権をめざす新教国スウェーデンの国王グスタフ=アドルフが戦いに加わった。しかし、旧教国フランスも新教勢力と同盟して皇帝とたたかい始めるなど、三十年戦争は宗教的対立をこえたハプスブルク家対フランスの戦いでもあった。
詳説世界史B(改訂版):山川出版社
フェルディナントくん、その後ボヘミア王から神聖ローマ皇帝フェルディナント2世になったもんなので、軍隊を率いることができたわけです。
皇帝軍有利。
と、ここでデンマークが参戦してきます。
勢いにのるフェルディナント2世(旧教)を、新教国デンマークのクリスチャン4世が抑えにかかります。
そこでフェルディナント2世が起用したのが、ヴァレンシュタインという戦に長けた傭兵隊長でした。
デンマーク軍を蹴散らします。
そんなフェルディナント2世がドイツ北部にまで進出すると、今度はバルト海の覇権を取りたいこちらも新教国スウェーデンが参戦してきます。
このスウェーデン王グスタフ=アドルフが、これまた戦が強くて、「北方の獅子」とまで言われた人物です。
危機感を抱いたフェルディナント2世は、罷免していたヴァレンシュタインを呼び戻して戦います。
ヴァレンシュタイン罷免に至るまで
彼はボヘミアのドイツ系プロテスタントの小貴族の家に生まれましたが、後にカトリックに改宗しています。ヴァレンシュタインは先のデンマーク戦争での勝利をきっかけに大貴族になり、自前の軍勢徴募の申し出も許可され、皇帝軍総司令官にまで任命されたのです。また、勝手に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立てたり、とにかく目に余る行動が多くなっていました。旧来の帝国諸侯たちの反感を買い、ヴァレンシュタイン及び神聖ローマ皇帝政府は孤立。フェルディナント2世はヴァレンシュタインを罷免することで諸侯たちの反感を抑えました。しかしスウェーデンとの戦いの後、ヴァレンシュタインは暗殺されてしまいます。
激戦の末、スウェーデンが勝利するのですが、それと引き換えにスウェーデン王グスタフ=アドルフは戦死してしまいました。
・・・と、まぁなかなか終わらないのです。
しかしこれらの戦いを、実は裏で焚き付けていたのはフランスの宰相リシュリューだというから驚きです。
フランスと神聖ローマ帝国(というかハプスブルク家)はとにかく仲が悪いんです。
フランスからすると、西のスペイン・東の神聖ローマ帝国と、両方をハプスブルク家に挟まれているのが相当ストレスなわけで。
なんとか神聖ローマ帝国を弱体化できないか、それを自らの血を流すことなく他国を戦争に巻き込ませて実現させてやろうというのがリシュリューの思惑でした。
そのため、表向きは旧教カトリックVS新教プロテスタントという構図ではありますが、実はそれを扇動していたのは神聖ローマ帝国と同じカトリック教国のフランスだったわけです。
さて、そんなフランスですが、弱体化してきたフェルディナント2世率いる神聖ローマ皇帝軍についに宣戦布告します。
この瞬間、あれほど宗教戦争だ!と思われていた戦が、単なる国家(という概念はないがつまりはフランス国王VS神聖ローマ皇帝)同士の利権争いに切り替わったのです。
出口がようやく見えてきました。
宗教戦争はどうしても妥協ということができないから長引きます。
落としどころがないってやつです。
しかし利権争いや国王同士の戦いは、妥協点や軍事力によって終わりに導くことができます。
三十年戦争終結
三十年戦争は1648年のウェストファリア条約で終結したが、講和条約が大半のヨーロッパ諸国が参加した国際会議でまとめられたことは、ヨーロッパの主権国家体制の確立を示すものであった。これにより、ドイツの諸侯にほとんど完全な主権が承認され、帝国における諸侯の分立状態は決定的となった。長年戦場となったドイツでは、人口も激減してその後長く停滞することになった。ハプスブルク家の勢力は後退し、フランスにアルザスを奪われた。また、スウェーデンは北ドイツ沿海の西ポンメルンなどに領土を得て、バルト海を内海とするバルト帝国を成立させた。さらに、スイスとオランダは独立を正式に認められた。
詳説世界史B(改訂版):山川出版社
今まで「国家」という概念はなかったのですが、このウエストファリア条約が現代の国際秩序の起点となります。
とはいえまだまだ今私たちが知っている「主権国家」とはほど遠いことは知っておくべきです。
「起点」というのは、「人を殺してはならない」という今では当たり前のことが「確かにそうだね」となった大転換です。
宗教戦争はもうやめて、戦争もきちんとルールに則ってやっていこう、というわけです。
外交交渉として戦争が行われる時代へと突入していきます。
では、誰と誰が交渉するのか?
それが、国家の芽生えということです。
ここでは約300にも分かれていたドイツの領邦すべてに主権が認められたということになります。
つまり、神聖ローマ帝国というのがいよいよ名ばかりというか、勢力を大きく削がれたのがこのウェストファリア条約でした。
ウエストファリア条約が別名「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれる所以です。
三十年戦争に勝利したフランスは神聖ローマ帝国との境界にあるアルザスを得て、また、スウェーデンはドイツ北沿岸の西ポンメルンなどを得ました。
オーストリアハプスブルク家神聖ローマ皇帝がフランスと結んだのがミュンスター条約で、スウェーデンと結んだのがオスナブリュック条約です。(これらをあわせて、ウェストファリア条約です)
そして今までスペイン等に独立を認められていなかったオランダとスイスが、ここでようやく正式に独立したのです。