詳説世界史B(改訂版) P215~P216 (山川出版社)
スペイン王国はアラゴン王国とカスティリヤ王国が一緒になって誕生しました。
そして、ここの王女として生まれたファナが、ハプスブルク家フィリップと婚姻したことにより、後にスペイン王国はハプスブルク家が相続していくことになります。
さて、スペインの全盛期はどのように誕生したのか、教科書に沿ってみていきましょう。
スペイン=ハプスブルク家誕生
オーストリアのハプスブルク家は15世紀後半にネーデルラントを婚姻関係を通じて獲得し、さらにスペイン王位も継承した。スペイン=ハプスブルク家のカルロス1世は神聖ローマ皇帝(カール5世)を兼ね、伝統的なキリスト教世界の統一を体現する存在となった。
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まず、オーストリア=ハプスブルク家がネーデルラント(今でいう、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクと北フランス一帯)を獲得したのは、マクシミリアン1世のときです。
教科書P216の家系図を参考にしてください。
家系図にはマクシミリアン1世のみ書かれていますが、彼はネーデルラント辺りを所領していたブルゴーニュ公の公女マリアと結婚しました。
そのため、ブルゴーニュ公国はハプスブルク家の所領となったのです。
そして、マクシミリアンとマリアの間に生まれたのがフィリップで、彼がスペイン王女のフアナと結婚し、二人の間に生まれた長男カール5世が、後にカルロス1世としてスペイン王に就くのです。
これがスペイン=ハプスブルク家の始まりです。
カルロス1世は、神聖ローマ皇帝も兼ねました。
つまり、神聖ローマ皇帝としてはカール5世で、スペイン王としてはカルロス1世ということになります。
後に、カルロス1世の子孫がスペイン=ハプスブルク家を継承し、弟のフェルディナント1世がオーストリア=ハプスブルク家を継承していくこととなるのです。
しかし、この両ハプスブルク家に挟まれておもしろくないというか、危機感を抱いたのはなんといってもフランスです。
ここから、ハプスブルク家とフランス王の飽くなき戦いが続いていくのです。
逼迫する王国財政
しかし、イタリア戦争でフランスとの対立が激化し、東方からはオスマン帝国の勢力が進出してきたこともあって、カルロスはその治世の大半を、複雑に後世された広大な支配領域を維持するために戦いについやした。植民地としてラテンアメリカから流入してくる多量の銀も、広範な国民を豊かにすることがなかった。
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イタリアを巡っては、手付かずの場所が多く、フランス王とハプスブルク家(神聖ローマ帝国)の取り合い合戦が続きます。
場所的に、フランスと神聖ローマ帝国領の間なのがわかります。
また、ナポリ王国もスペインとフランスで対立します。
とにかく争いが絶えない中、東の方からは全盛期を迎えている強国オスマン帝国も神聖ローマ帝国領に攻め込んできます。
これに困っている神聖ローマ皇帝を尻目に、フランス王はなんとオスマン帝国と協定を結びます。
ハプスブルク家憎しという思いから、異教徒と手を組むことも厭わないフランス王。
そんなこんなで、せっかく大航海時代に大海原に飛び出し、アメリカ大陸という植民地からザクザク掘って持ち去った銀も、国を潤わすことなく垂れ流しで出ていくことになったのです。
スペイン全盛期 カルロス2世
しかしそれはあとから振り替えってみればい、という話です。
その時代に生きたものにとってはこの時がスペイン全盛期です。
全盛期とはすなわち、衰退に向かうはじまりを意味しています。
スペインの全盛期は、カルロス1世の子フェリペ2世のときに訪れました。
1556年カルロス1世が退位すると、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系にわかれた。スペインはフェリペ2世のもとで全盛期を迎え、1571年レパントの海戦でオスマン帝国の海軍を破って、その脅威を一時和らげた。フェリペは1580年にポルトガル王位を兼ね、スペインとポルトガルの同君連合は1640年まで続いた。その間、スペインはポルトガルの海外植民地も支配下において、「太陽のしずまぬ国」を実現したが、オランダ・イギリスなどの新興国の攻撃をうけて、その力は低下していった。
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フェリペ2世の頃、スペインはアメリカ大陸にもアジアにも植民地をもち、またポルトガルと同君連合になったことで広範囲に渡って植民地をもつこととなります。
スペイン領は常にどこかで太陽が昇っている、まさに「太陽がしずまない」国となったのです。
さぞかし植民地支配によって潤ったことでしょう、と思うかもしれませんが、実際に植民地をもつことで莫大な利益を出すなどほとんど稀です。
むしろ開拓して基盤を作るまでに莫大な投資資金が必要で、それを回収するための産業が育つかというとその保証もないわけで。
また、植民地を維持するためには外国勢力から防衛しなければならないため、軍事費もめちゃくちゃかかります。
これで王室が贅沢した日には、財政は傾く一方です。
事実、フェリペ2世は4回破産宣言しています。
ちなみに、必ず習う1571年のレパントの海戦は、オスマン帝国が地中海の覇権を西へ伸ばすにあたって、スペイン・ヴェネチア・ローマ教皇軍が束になってかかって勝利した、貴重な1戦でした。
ただし、その前後に行われたオスマン帝国との戦いには敗戦しています。
ことさらレパントの海戦の勝利を強調していますが、実際にオスマン帝国の勢力は大打撃をうけたわけでもなく、相変わらず地中海(特に東半分)はオスマン帝国が掌握した海です。
1558年、アルマダ海戦によりスペインの大艦隊がイギリスに負けたことで衰退の色はどんどん濃くなっていきます。
フェリペ2世死後、3代続いた後にスペイン=ハプスブルク家は断絶し、フランスブルボン家が継承していきます。
余談ですが、現フィリピンの国名は、フェリペ2世の名が由来です。
スペインがアジアまで勢力を広げた歴史が、ここに残っていますね。