オリエント史★★★/宗教史★

メソポタミア文明ってすっっごい長い歴史があるのに、なぜか教科書でスポットライト当たることがないですよね……

実は5000年以上の歴史があるって知ってたかな?



え!そんな前から!?カタカナの川の名前覚えるのだけで精いっぱいだったな…



暗記ばかりしてても、楽しくないよね?
今日はメソポタミアの長い歴史の一部を一緒にみていこう!



楽しみだな!強そうなのがたくさん出てきそうだ!!
紀元前3000年頃、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた肥沃な沖積平野(ちゅうせきへいや)に、シュメール人によって、ウル、ウルク、ラガシュといった都市国家が築かれました。
これがメソポタミア文明の始まりです。
そしてだんだんとその周辺にも、色々な民族が支配する地域が現れます。
時には衝突しながら、そして絶妙なバランスを保ちつつ、自分たちの住む地域をお互いが守ってきたようです。
メソポタミア文明は長いですが、今回はあるところにスポットを当てます。
人類史初の世界帝国を築くアケメネス朝ペルシア成立前のメソポタミア情勢を整理していきましょう!
紀元前2000年中頃のオリエント世界



紀元前2000年頃、つまり今から約4000年前です
この頃、メソポタミア周辺ではいくつかの支配地域に分かれていました。
北メソポタミア地域にはアッシリアです。
南メソポタミア地域にはバビロニアです。
そしてイラン高原南西にエラムがあり、アッシリアの西側にはミタンニ、アナトリア半島中心部にヒッタイト、そしてアフリカ大陸にエジプトです。
この中でアッシリアが力をつけて帝国を築いていきます。
とはいっても、すぐではありません。
なかなかの紆余曲折を経ます。



バビロニアって聞いたことあるなー



ほら、あの有名なバビロン捕囚じゃない?



それだ!!!



ややこしいが、いまこの時代に出てきているバビロニアは、バビロン捕囚とは関係ないんです



なんだよそれー!!ややこしいな!似た名前にしてさ!!



まぁ落ち着ちついて。
バビロン捕囚として有名なのは、このあと出てくる新バビロニアの話。もう少し先に出てくるからもうちょっと待ってて!
アッシリア帝国成立まで
紀元前2000年ごろからアッシリア王国が歴史に姿を表し始めます。
アッシリアの歴史は、その後大きく3つの区分に分かれます。
①バビロニア〜アナトリアといった広大な地域の遠隔地交易で繁栄
と、思いきや西側にあるミタンニ国の属国になってしまい一時期衰退
②ミタンニ国がアナトリア中部のヒッタイトに攻められ勢力が失われると、アッシリアが盛り返す
ところがアッシリア領内で大飢饉が起きてまたもや衰退
③紀元前1000年頃、アッシリアの勢力が拡大し、ついにアッシリアの全盛期がやってきます。
紀元前744年にアッシリアが統一国家を形成します。
このように、アッシリアが初の世界帝国と言われる説もありますが、多民族を束ねたという意味で世界初の統一国家と呼ぶ方がふさわしいかもしれません。
ただ、帝国に「世界」という言葉をつけるとしたら、複数の大陸に跨がってなおかつ多民族を支配するという解釈になると思うので、世界帝国という名称ならやはりアケメネス朝ペルシアではなかろうかと思います。
新バビロニアの誕生
せっかく統一国家を形成したアッシリアですが、わずか100年ほどで滅んでしまいます。
アッシリアの統治があまりにも厳しく、被支配民族から不満が噴出したことが一番の原因と言われています。
広い領土と多様な民族を統治するには力技で行う必要があったのだと思いますが、行き過ぎた行為はいつの時代も反感を買いますよね。
紀元前627年、アッシュルバニパルが亡くなって以降、急速にアッシリアは力を失っていきます。
翌年、南メソポタミアではナボポラサル主導のもと新バビロニアが分離独立したのです。
そして新バビロニアはメディア王国と手を組みます。
メディア王国は、アッシリアの東に位置していた集団(現イラン北西部あたり)で、紀元前728年頃に興ります。
そんなメディアと新バビロニアの連合軍がアッシリアの首都ニネヴェを陥落させ、紀元前609年アッシリアは滅亡してしまうのです。



せっかく統一できたのに、100年で終わっちゃうのか…



さぁ、次はお待ちかね、新バビロニアの話がはじまるよ
新バビロニアVSエジプト
エジプトはサイス朝の時代です。
このサイス朝エジプトと新バビロニアの中間地点にあたる地域が、シリア・パレスチナ地帯です。
両者とも、この地を支配地域に入れたいので、取り合いが続きます。
紀元前605年、新バビロニアが勝利をおさめるのですが、こののち歴史上有名な出来事が起きます。



さっき言ってたバビロン捕囚だね!



既にイスラエル王国とユダ王国に分裂していた(イスラエル王国は先にアッシリアに占領された)が、残りのユダ王国が新バビロニアによって占領されました
ユダ王国にいたユダヤ人たちは、捕虜としてバビロニア地方に連行されたといわれています。
ただ、実際のところは移住を命ぜられて連れられた、というようなバビロン移住的な感じだったと伝えるものもあります。
今となってはわかりませんが、このバビロン捕囚はアケメネス朝ペルシアが大統一すると解除され、ユダヤ人たちも自由になったそうですが、意外と大勢の人がそのまま定住したとも言われています。
とはいえ、こういった歴史的経緯もあって、ユダヤ人は亡国の民になっていってしまうんですよね。
このお話はまたの機会に。
さぁ、話を戻して、この先は新バビロニアの勢い止まらず!
・・・と思いきや、意外と短命に終わってしまいます。



なんだよ!何があったんだよ!?忙しいな!
アケメネス朝ペルシアの成立
紀元前562年、新バビロニア第二代の王、ネブカドネザルが亡くなったのをきっかけに、王位継承争いが勃発。
なんとそのまま衰退していくのです。
\ ぼたんだよ /



世代交代って難しいんだね



いつの時代もそうだけど、大いなる繁栄のあとは特にそうなりやすいね。だからこそ長く続いた帝国は、歴史的にみてもなかなかそう多くはない。
さぁ、新バビロニアが衰退したその隙に現れたのは、キュロス二世率いるアケメネス朝ペルシアです!!
アケメネス朝ペルシア
イラン人の一系統であるペルシア人のアケメネス家が、紀元前550年、キュロス2世の時にそれまで服属していたメディア王国を滅ぼして独立しました。
イラン人はインド=ヨーロッパ語族で、これまでのセム語族とは異なります。
彼らはその後急速に勢力を伸ばし、イラン高原から小アジア、インダス川流域にいたる帝国を築き上げたのです。
紀元前538年には新バビロニアを滅ぼし、フェニキア人の都市シドンやティルスなども支配しました。
キュロス2世の長男カンビュセス2世が紀元前530年に跡を継ぎ、紀元前525年にはエジプトを征服。
元々大陸内で勢力を誇っていたペルシアは、海軍力を持ち合わせていません。
そのため、エジプト征服は困難に思えましたが、ラッキーなことに、キュロス時代に支配下におさめたアナトリアのギリシア系植民都市でありなおかつエジプト同盟国であったサモスとキプロスがペルシアに寝返ったのです。
その勢いでエジプトを征服できたといわれています。
そしてこのペルシア帝国を確固たるもにしたのは次の王、ダレイオス1世です。
様々な制度を整え、また、バルカン半島にも進出し、その結果、ギリシア北部のマケドニア王国もペルシア帝国に臣従しました。
アケメネス朝ペルシアがアッシリアと違って安定した統治ができたのは、その帝国支配下の諸民族の文化や伝統に寛容であったことが大きな理由と考えられています。
ところがこのアケメネス朝ペルシア、220年で滅亡してしまいます。
空前絶後のアレクサンドロス大王の登場です。
このあと歴史のスポットは一度、ヨーロッパ大陸に移ります。



そうか!ここでアレクサンドロス大王に繋がっていくんだね!



なんか急に馴染みの人が出てきたって感じ!



このあともこのオリエント地域は、イスラム教が出てくるまでいろんな国が興ってダイナミックな世界になっていくよ。
それはまた別の機会に触れるとしよう。



それはそうとさ、ペルシアといえば絨毯を思い出しちゃった!これ、どんな歴史なのかな?



お!おもしろそうだな!いつか調べてみようぜ!!



好奇心旺盛なのはいいこと。
その国の文化や芸術を知るのも、世界史を深く知るうえで大事なことだからね!
いつかペルシア絨毯に寄り道してみたいと思うので、その日までお待ちください…!



