アレクサンドロス大王の遠征が行われ、エジプトも、アケメネス朝ペルシアも滅びました。
これからアレクサンドロスの大帝国が定着すると思った矢先、アレクサンドロス大王はバビロンにて紀元前323年に急死します。
一説には感染症による死亡と言われています。
早すぎる死はうまく後継者に引き継ぐことができなかったのよね
結局アレクサンドロス大王が征服した大きすぎる版図をうまく引き継げず、3つの王朝に分かれてしまうんだよ
アレクサンドロス大王後の3つの王朝とは?
- セレウコス朝シリア
- プトレマイオス朝エジプト
- アンティゴノス朝マケドニア
アンティゴノス朝マケドニア
この中で一番早くになくなってしまうのが、アレクサンドロス大王の出身地であるアンティゴノス朝マケドニアでした。
アレクサンドロスの後継者(=ディアドコイと言う)の一人、アンティゴノスの子が紀元前276年に建国。
ところが紀元前168年にはローマに滅ぼされました。
100年くらいの王朝でしたね。
プトレマイオス朝エジプト
さて、エジプトです。
アレクサンドロス大王死後、部下の一人が後継者争いを勝ち抜き、エジプトの実質的支配権を掌握しました。
その人物がプトレマイオス1世です。
プトレマイオス朝は結構長く続いて、約270年(紀元前305年〜紀元前30年)エジプトを統治しました。
その最後の王が、有名なクレオパトラです。
正式にいうと、クレオパトラ7世です。
ということで、エジプトも結局ローマによって滅亡されたんですね。
セレウコス朝シリア
セレウコス朝シリアは紀元前305年に建国され、紀元前64年まで続いた王朝です。
このセレウコス朝シリアが、一番大きな領土を得てアレクサンドロス大王の跡を引き継ぎました。
なんと西アジアのほとんどを領有します。
後継者はセレウコス1世です。
ところがあまりにも領土が大きすぎたうえに、突然引き継いだわけですからうまく統治できません。
すごくないですか?この大きすぎる領土。
ピンクの部分全部がセレウコス朝シリアです。
でも結局、かなり早い段階でセレウコス朝シリアの領内から独立国が誕生します。
それがパルティアであり、バクトリアといった王朝だったのです。
左から右に見たら一目瞭然ですが、紀元前2世紀後半になるとセレウコス朝シリアは紫部分の小さな領土のみとなってしまってます。
そしてセレウコス朝シリアも紀元前64年に首都セレウキアをローマ軍に占領され、属州シリアとして支配されることで滅亡しました。
結局どの地域もローマによって滅ぼされたんだね
ちょっと寄り道①〜ポエニ戦争の話〜
実はポエニ戦争でカルタゴの英雄といわれたハンニバルが、敗戦の責任をとってカルタゴより亡命した先がティルスでした。
ティルスはフェニキア人の都市でしたが、当時はセレウコス朝シリアの支配下にありました。
ハンニバルはセレウコス朝シリアの当時の王アンティオコス3世にローマ反撃の話を持ちかけます。
実はこのとき、アンティオコス3世はシリア周辺に勢力を伸ばしていて、ローマと対立していたところでした。
縮小傾向であったセレウコス朝シリアの領土を再拡大し、東方のインドまで遠征してアレクサンドロス大王の再来としてアンティオコス3世自身も自負していた可能性があります。
そこにハンニバルがやってきたのです。
この話にのったアンティオコス3世。
しかしローマにも名将軍がいたんですね。
それがカトー(大カトー)です。
結局アンティオコス3世は敗れ、ハンニバルもシリアを離れてしまいます。
ハンニバルはその後アルメニアやビテュニに亡命をし続け、その間ローマはハンニバルがいる地に身柄引き渡しを要求するもハンニバルは拒み続け、最後は服毒自殺をして生涯を終えました。
ちょっと寄り道②〜定礎の話〜
セレウコス朝シリアなんて、日本にとってはあまり関係のないところの話ですよね。
歴史として知っている程度で。
ところがこのセレウコス朝シリアが繋いでくれたおかげで、現代の日本まで続いている慣習があります。
それが、「定礎」です。
ウバイド文化期までに遡れる古い習慣で、建造物の基礎部分に建造部の無事などを祈って定礎埋葬物を埋める習慣がつづいていたようだ。ちなみに、この習慣はアケメネス朝でも採用され、さらに現代の日本にまでつづいている。
古代メソポタミア全史ーシュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで 著者:小林登志子 発行:中央公論新社
ビルなんかでよく見ますよね。
定礎と書かれた礎石が埋め込まれています。
日本では定礎の中に建物の図面、定礎式当日の新聞や出資者の名簿等が入れられています。
そう思うと定礎ってなかなかの歴史だし、遠い昔のメソポタミアと繋がっていて不思議な感じがするな