イングランド王の家系図① ノルマン朝~プランタジネット朝まで

今のイギリス王家につながるはじまりは、1066年ウィリアム1世が即位した時代にさかのぼります。

ノルマン朝の始まりです。

ここから多くの王がつながっていきますが、今日は家系図を辿りながら確認していきましょう。

イギリスに関する歴史はぜひこちらも参考にしてください。

もくじ

ノルマン朝(4代:1066年~1154年)

ウィリアム1世

まずはなんといってもウィリアム1世ですね。

彼はもともと父亡き後、7歳でノルマンディ公の地位につきました。

その後、妻マチルダと結婚しますが、その妻はフランドル伯ボートワン5世の娘でした。

実はこのボートワン5世が、アルフレッド大王の子孫にあたる人物だったのです。

その結果、イングランドの王位継承の際に自ら名乗り出て、最終的にノルマンコンクエストを果たすのでした。

つまり、ウィリアム1世はイングランド王でもあり、大陸側ではノルマンディ公でフランス内の諸侯でもあったわけです。

これが後の英仏百年戦争の遠因になってしまいます。

アルフレッド大王:アングロサクソン系の民族で、エグバートの孫。イギリス七王国で唯一、ヴァイキングであるデーン人が侵入してきた際に屈しなかった王。デーン人を追い出すことはできなかったが、平和共存を目指し、デーン人をキリスト教に改宗させた人物でもある。

分割相続による王位継承

さて、そんなウィリアム1世ですが、子供たちへの相続は「分割」を選択しました。

ウィリアム1世には娘のアデラもいましたが、彼女は女子ですし、嫁いだので相続は関係ありません。

うまくいったかに思われた相続ですが、ところがこの子供たち、どうやらノルマンディーもイングランドも1人で統治したいと考えてしまったようで思わぬ分裂を生みます。

まず長男ロベールですが、彼はローマ教皇の呼びかけで第一回十字軍遠征に参加しなければなりませんでした。

とはいえ、参加には費用がかなりかかりますし、長期不在となってしまいます。

そこを三男ウィリアムが資金援助および代わりにノルマンディー公領を統治する、となったのです。

この三男ウィリアムがノルマン朝第二代の王、ウィリアム2世です。

ところが彼は1100年に事故で亡くなってしまいます。

そこでイングランド王を継承したのが四男のヘンリでした。

彼はヘンリ1世として即位。

その後長男ロベールが十字軍遠征から復帰し、1106年、イングランド王およびノルマンディー公領をめぐってヘンリ1世と戦うこととなったのです。

この戦にはヘンリ1世が勝利。

イングランド王とノルマンディー公領はここから一元化され、ヘンリ1世が統治することとなったのです。

ヘンリ1世の継承問題

さて、この流れでいくとヘンリ1世の子がまた継承することになるのですが、残念なことに生まれた男の子は事故死してしまいます。

もう一人、娘のマチルダがいるのですが、彼女は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁ぎました。

ところがそのハインリヒ5世が亡くなったのでヘンリ1世はマチルダを呼び戻します。

マチルダをフランスのアンジュー伯ジョフリ・プランタジネットに嫁がせ、生まれた子を皇太子候補としたのです。

これが次のプランタジネット朝につながるわけなのですが、その前に実はひと悶着起きます。

ヘンリ1世の甥であるスティーヴンが突如王位継承権を主張したのです。

スティーヴンって誰だ?と思うのですが、ヘンリ1世には姉がいて、それが先ほど登場したアデラです。

彼は姉と仲良しだったのですが、まさかその姉の子であるスティーヴンが王位継承権を主張するとは思いもしませんでした。

ヘンリ1世死後、娘のマチルダと甥のスティーヴンは約13年にもわたり対立。

結局、スティーヴンが第四代イングランド王となり、その裏で「スティーヴン死後はマチルダの子ヘンリが王位継承する」という密約を結んだのでした。

そして1154年、スティーヴンが死去し、ヘンリがヘンリ2世として即位。

ここからプランタジネット朝が始まります。

それでは、ここでノルマン朝を家系図にしてまとめておきましょう。

プランタジネット朝(8代:1154年〜1399年)

ヘンリ2世

さて、ヘンリ2世は親からの相続でノルマンディー公領、アンジュー伯領、イングランド王を継承しました。

さらに妻をアキテーヌ公から迎えて妻との共同統治者としてさらに領地を広げます。

ヘンリ2世が築いた束の間のアンジュー帝国については下記記事にて詳細を記載していますのでぜひ読んでみてください。

ヘンリ2世の次にイングランド王になったのは息子のリチャードでした。

リチャード1世

リチャード1世として即位した彼は、第3回十字軍遠征の王としても有名です。

「獅子親王」と呼ばれるだけあって、勇猛果敢な王でした。

イングランド王には10年間即位していましたが、その多くを遠征先で過ごしたため、イングランドに滞在したのはわずか6か月ほどと言われています。

また、兄弟間の争いやフランスのフィリップ2世との対立など、気の休まる時間はほとんどなかったのではないかと思います。

妻との間に子を残すことができず、41歳の若さで亡くなりました。

そうなると王位継承は末っ子の弟、ジョンへ移ります。

ジョン王

ジョン王は「◯世」というのがないんですよね。

つまりあとにも先にも、「ジョン」という名の王はこの1人だけです。

彼はフランスフィリップ2世との戦いに敗れ2年ほど捕虜になります。

イングランド諸侯からの身代金支払いにより解放されますが、その後も失政を重ね、諸侯たちの怒りを買うこととなりました。

これが原因で1215年、マグナ・カルタが発布されました。

マグナ・カルタとは、貴族や市民の権利を明文化したもので、王も法の下での権力に従うようにいわれました。

これがイギリス立憲政治の基盤になっていきます。

ところが最後までジョン王はこれに従わず、翌年1216年に亡くなりました。

ヘンリ3世

後を継いだのはジョン王の子であるヘンリ3世です。

9歳で即位しました。

彼はフランスのプロヴァンス伯の娘であるエリナと結婚しました。

ヘンリ3世はジョン王のときに失ったフランス領を取りに行こうとしますが、イングランド諸侯はこれに乗り気ではありません。(この頃から、もともとフランスから移ってきたイングランド諸侯・貴族たちは「イングランド」として自分たちのアイデンティティをもちはじめます。もはやフランス諸侯・貴族としての意識が薄れてきたということですね。)

マグナ・カルタも守ろうとしないヘンリ3世にレスター伯シモン・ド・モンフォールが立ち上がり対立。

一時は国王派に勝利し、「シモン・ド・モンフォールの議会」を招集するほど国内の支持を集め改革を進めましたが、結局はヘンリ3世の子エドワードに反撃をされて戦死してしまいます。

ただ、イングランド議会制度の基礎を作り上げた人物として、後世では英雄視される人物となりました。

エドワード1世

さて、今までどちらかというとフランスを軸にイングランド統治をしていた感が強かったのですが、エドワード1世が即位してからはイングランド内に目を向けていくようになります。

まずはブリテン島の統一支配を進めていこうとします。

この頃、ブリテン島内は「ウェールズ」と「スコットランド」がまだ独立していました。

エドワード1世は1276年以降、4度にわたりウェールズに侵攻し、勝利。

自身の王妃をウェールズに呼び、そこで皇子を出産させたのです。

実はここから「プリンス・オブ・ウェールズ」という称号が誕生しました。

エドワード1世はウェールズ人を懐柔するためのパフォーマンスとして、皇太子を生み育てる場所をウェールズとしたんですね。

ウェールズ人の皇太子への愛着を生ませる、うまい戦略でした。

以降、現在にいたるまでイギリスの皇太子は「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ばれるようになります。

ところがエドワード1世はスコットランドまでは統一できなかったようです。

その後スコットランドは17世紀まで独立を保ちます。

エドワード2世

次の王はエドワード1世の子であるエドワード2世です。

かわいそうなことに、エドワード2世はイギリス史上最悪の王とされています。

王なのに軟弱で、スコットランド軍にも完敗。

しまいには妻であるイサベルにも裏切られ幽閉されてしまいます。

イサベルはフランスのフィリップ4世の娘でした。

1327年、イサベルが開いた議会でエドワード2世の廃位が決まり、二人の子であるエドワード3世が即位。

このエドワード3世こそが英仏百年戦争を起こした王です。

エドワード3世

まずエドワード3世は父の敵討ちをします。

というのも、母イサベルは愛人ロジャー・モーティーマーとイングランド政治を取り仕切っていたからです。

1330年、エドワード3世は母とロジャー・モーティーマーを逮捕したのでした。

それと同時並行で起こったのがフランスのカペー朝断絶でした。

1328年まで続いたカペー朝が断絶し、継承問題に揺れていたフランス王位に手を挙げたのがエドワード3世でした。

母イサベルはフィリップ4世の娘で、兄弟が全員亡くなったいま、一番血筋が近いのはフィリップ4世の孫である自分だ、と主張したのです。

ところがフランスやドイツ(当時は神聖ローマ帝国)はゲルマン系の民族で、フランク族の頃から「サリカ法」をもとに王位継承がされてきました。

つまり、男系しか継承できないんですよね。

イングランドはサリカ法ではないので、女王が即位しても問題はありません。

ここのズレもあり、フランスヴァロワ家とイングランドプランタジネット朝の戦争が英仏百年戦争として火蓋を切ったのです。

ここに至る下地として、イングランドとフランスにまたがって領地を保有していたり、政略結婚により双方に継承権が生じる問題だったりがついに露呈したのでした。

リチャード2世

英仏百年戦争が始まり、エドワード3世は1377年に亡くなります。

エドワード3世には子がたくさんいましたが、多くが早くに亡くなってしまい、後継者は孫のリチャード2世にまわってきました。

英仏百年戦争については下記記事で詳細を記載しているので参考ください。

リチャード2世はプランタジネット最後の王です。

彼には子供がいませんでした。

この先の継承者は、父の兄弟にまわっていきます。

ランカスター公ジョンの初めの妻との間に生まれたヘンリが、ヘンリ4世として即位します。

ここからランカスター朝が始まります。

後ほどの話になりますが、ジョンの2人目の妻との間に生まれた子の子孫が、後に繋がるヘンリ7世です。

彼はもう少し先のテューダー朝の初代王です。

この話はまた後ほど登場しますので、ここでプランタジネット朝の家系図をまとめてえおきましょう。

ここからは、イングランド王の家系図②へ続きます。

参考図書

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