フランスの宗教内乱と絶対王政(教科書P219〜P220)

詳説世界史B(改訂版) P219~P220 (山川出版社) 

百年戦争後、フランス内部は宗教対立が深刻化します。

ポイントとなる人物はアンリ4世です。

このとき、”アンリ”という名の人物が彼を含めて3人出てくるので、混乱しないように気をつけましょう!

もくじ

フランスの宗教内乱と絶対王制

フランスは百年戦争の結果、ヴァロワ朝のもとで国内のイギリス領をほぼ一掃し、中央集権国家への道を歩んできた。しかし、旧教国フランスでも、16世紀半ばにはユグノーと呼ばれるカルヴァン派の新教徒勢力が無視できなくなり、シャルル9世と母親の摂政カトリーヌ=ド=メディシスのもとでユグノー戦争という内乱が勃発した。

詳説世界史B(改訂版):山川出版社 

百年戦争は一応、1453年に終結します。

英仏百年戦争と言われているので、もちろんイギリスと戦争をしていたのですが、最終的に勝者となったのはフランスです。

この戦争の結果、フランスの地にあったイギリス支配の地はカレーのみとなります。

カレーの場所を見ていただくとわかるのですが、ブリテン島からみてドーバー海峡を挟み、一番近い大陸の地です。

旧教国フランスとは、カトリック教国フランスという意味ですね。

1517年にルターが起こした行動は、後にカルヴァン派というより厳格な宗教改革を進めようとする新教も生み出します。

この頃のフランスは、新教(プロテスタント)はルター派を意味しており、急速に広がったもののそこまで危険視というか邪険にはしていませんでした。

フランス内部では、どちらかというと教会と王の主導権争いが常にあり、王からすればプロテスタントが幅を利かすことで教会(=カトリック)の力を弱めることになるので、むしろラッキーくらいに思っていた節もあります。

ところが、1534年に事件がおきます。

プロテスタントがカトリック行事の中止を求めて檄文をばらまきます。

檄文とは、ともに立ち上がって戦おう!と人々に呼びかける文書のことを言います。

この檄文が、王の寝室近辺にまで貼り出されたことで事態は一変。

こんな近くにまでプロテスタントが入り込んでいるのか!!!

となったようで、国王はプロテスタントを追放する方針に舵を切ります。

この追放されたプロテスタントの一人として、ジャン・カルヴァンがいました。

彼はスイスへ逃げます。

その後、フランスは南部の方からカルヴァン派が広がり、ルター派だった人もカルヴァン派に流れていくのです。

ちなみにユグノーとは、フランスで呼ばれているカルヴァン派のことです。

ここから、王・教会(カトリック)・新教プロテスタント(ユグノー)の三つ巴の戦いが泥沼化していきます。

ユグノー戦争は1562年~1598年まで続いたフランスの内戦です。

8次にわたって内線がおこり、その中の1つが「三アンリ戦争」と呼ばれています。 

この内乱は新旧両宗派の対立が貴族間の党派争いと結びついたもので、サンバルテルミの虐殺などの事件をともないながら、30年以上におよんだ。これには外国勢力の介入もみられたため、フランスでは、思想家ボーダンをはじめ、宗教問題よりも国家の統一を優先しようとする人々が増えていった。

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サンバルテルミの虐殺が起こったのは1572年です。

詳しい話はこれからしますが、とりあえずサンバルテルミとは、聖バルトロマイを祝う祝日で、8月24日を指します。

聖バルトロマイとは、新約聖書に登場するイエスの使徒の一人です。

ここではこれ以上深入りしないでおきます。

ブルボン家のアンリ4世は王位につくと新教から旧教に改宗し、1598年のナントの王令(勅令)でユグノーにも大幅な信教の自由を与えて、ユグノー戦争を終わらせた。こうして、フランスの国家としてのまとまりが維持された。

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ユグノーは中産階級に信者が多いのですが、地方の貴族にも浸透しはじめました。

ブルボン家もその一つです。

つまりブルボン家アンリ4世はユグノー信者でした。

当時のフランス王はヴァロワ家アンリ2世でしたが、急逝したためアンリ2世の子フランソワ2世が継ぎます。

ところが彼はまだ幼かったので、アンリ2世の妻であるカトリーヌ・ド・メディシスが実権を握ります。

\ 寄り道しよう /

その後フランソワ2世の弟であるシャルル9世、アンリ3世が継ぎますが、どのときもカトリーヌ・ド・メディシスが若い王をサポートする形で実権を握り続けました。

ちなみに、ブルボン家はヴァロワ家の遠縁です。

そんなブルボン家が後にヴァロワ家断絶後にフランス王を継ぐわけですから、不思議なものです。

さて、本題へ。

1562年にヴァシーの虐殺事件でユグノー戦争が勃発します。

ヴァシーの虐殺とは、カトリックによるユグノー虐殺の事件です。

この頃ブルボン家では9歳のアンリ(後のアンリ4世)が当主に任命されます。

また、1569年にはユグノー陣営の盟主に任命されます。

内戦が収まらない中、1572年、カトリーヌ・ド・メディシスはアンリ4世と娘のマルグリットを結婚させます。

アンリ4世はユグノー、娘マルグリットはカトリック。

両者を結婚させることでユグノーとカトリックの融和を図ったのです。

パリ市内のノートルダム聖堂で行われた結婚式の際、ユグノーの指導者であるコリニー提督は結婚を祝うため多くのユグノー貴族たちをパリに集めました。

ここで事件がおきます。

カトリック強硬派のギーズ公の兵がコリニー提督を暗殺してしまうのです。

これが、サンバルテルミの虐殺です。

つまり、またもやカトリックがユグノーを虐殺してしまったのです。

ユグノーからの報復が市民にも及ぶことに懸念を抱いたこのときの国王シャルル9世は、あろうことかユグノー貴族を皆殺しにせよと命令してしまいます。

この命令はユグノー貴族から波及し、ユグノー市民にまで広がり多くのユグノーが犠牲になりました。

また、このときアンリ4世をカトリックに強制改宗させ幽閉します。

1576年にアンリ4世はなんとか幽閉から脱出し、カトリックからユグノーに改宗してユグノーの盟主として戦います。

当時の国王はアンリ3世、カトリックの代表がギーズ公アンリ、ユグノーの盟主がアンリ4世。

よって、すべてアンリという名であることから、このときの内戦を三アンリ戦争と呼びます。

結局、ギーズ公アンリはクーデター計画で暗殺され、その後子のいないアンリ3世もカトリックの修道士に暗殺されてしまいます。

ヴァロワ家断絶により、王位継承はアンリ4世にまわってきます。

1589年に国王に即位し、その後フランス革命が起きるまでブルボン家が王家を引き継いでいきます。

アンリ4世は当初プロテスタントで王位に就きましたが、結局国王がカトリックじゃないと国が治まらないと痛感したアンリ4世は、最終的にカトリックに改宗します。

そしてこのユグノー戦争を終わらせるべく、カトリックの国教化とユグノーの信仰の自由を認めるナントの勅令を発布します。

これは、ヨーロッパ世界で初めて、個人の信仰の自由を認めた歴史的な出来事でした。

フランスを見事まとめあげたという点で、フランス人にとってアンリ4世は歴史的英雄です。

ナポレオンではなく、フランスの英雄といえばアンリ4世、という点は知っておくべきですね。

アンリ4世に始まるブルボン朝のもとで、フランスは絶対王制の確立期を迎えた。ルイ13世の宰相リシュリューは、王権に抵抗する貴族やユグノーをおさえて三部会を開かず、国際政治の面では、三十年戦争の際、新教勢力の間にたってハプスブルク家の皇帝権力をくじこうとつとめた。王権強化の政策は宰相マザランによって継続され、ルイ14世即位後の1648年には高等法院や貴族が反乱(フロンドの乱)をおこしたが、数年間で終息した。

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ところがアンリ4世、うまく国を治めたかにみえましたが、最後は暗殺されてしまいます。

結局、カトリックとユグノー、双方から恨みを買うことになったからです。

1610年、狂信的なカトリック信者に暗殺されました。

宗教対立の出口がまたも霞んでしまいました。

そんなとき、重要人物が現れます。

リシュリューです。

1622年、アンリ4世の子である国王ルイ13世に枢機卿として任命されます。

また、2年後には宰相に任命され、国王の絶大な信用のもと、政治を進めていきます。

三十年戦争では、あたかも中立を装いながら、裏ではハプスブルク家と対立しているものたちを支援します。

とにかくフランスは神聖ローマ皇帝およびスペイン王であるハプスブルク家と仲が悪い。

リシュリューは絶対王政に力を入れ、国にすべてを捧げた人物です。

三十年戦争が終わる前にリシュリューは亡くなりましたが、ちゃんと後継者を育てていました。

それがマザランです。

絶対王政を進めたリシュリューのあとを継ぎ、ルイ14世に仕えたマザラン。

ちなみにルイ14世はアンリ4世の孫です。

マザランは王権強化に反発した貴族らの乱、フロイドの乱を見事に鎮圧し、絶対王政を確実なものにしました。

ただその後、結局伝統的なカトリック国に戻そうとする勢力によって、ユグノーはまたも弾圧され、1685年にナントの勅令は廃止されてしまったのです。

弾圧されたユグノーたちはプロテスタントを受け入れるオランダへ流れていきます。

これがオランダが覇権をとる、後の歴史に繋がっていくのです。

要約

イギリスとの百年戦争に見事勝利したフランス。

ところが次に出てきた問題は、新教プロテスタントであるカルヴァン派(ユグノー)との国内での宗教対立でした。

国王の早世が続く中、政治の実権を握っていたのは国王シャルル9世の母カトリーヌドメディシス。

国王とカトリック教会とユグノーの三つ巴戦である、ユグノーの戦争が勃発します。

基本的にユグノーは弾圧される側で、サン・バルテルミの虐殺では、ユグノーである提督が暗殺され、その報復による混乱を恐れた国王がユグノー貴族の殺害を命令してしまいます。

終わりなき宗教対立に終止符を打ったのがアンリ4世です。

彼は元々ユグノーでしたが、国王即位に際してカトリックに改宗。

そのかわり、ユグノーの信仰の自由を認めるナントの勅令を発します。

これで落ち着いたかにみえた宗教対立ですが、結局アンリ4世は狂信的なカトリック信者に暗殺されてしまいます。

その後、フランスは宗教対立を鎮めるためにもなんとしても王権強化を進めていかないといけない、というリシュリュー宰相のもと、絶対王政の道へ進んでいきます。

リシュリューが整えたその道を、後継のマザランが引き継ぎ、王権強化反対派の貴族たちが起こしたフロイドの乱も鎮め、ルイ14世のときに絶対王政を確かなものとしたのです。

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