詳説世界史B(改訂版) P212~P213 (山川出版社)
日本史の教科書でも出てくるフランシスコ=ザビエル。
すぐにあの有名な絵が浮かんでくると思います。
ところでこの絵、日本の神戸で見られるって知ってましたか?
実は神戸市立博物館で保管されているんです。
ただし、文化庁の「国宝・重要文化財の公開に関する取扱要項」のルールに則り、光による退色、劣化を防ぐため、公開は年2回、延べ60日以内と定められています。(その他の日はレプリカを飾っているようです。)
この画は重要文化財だったんだ!
本物を見に行くときは公開日の確認を忘れずにね!
この絵はイエズス会の影響下で西洋絵画の技法を学んだ日本人画家が描いたと考えられていますが、作者は不明です。
本人を見て書いたのかどうかもわからないのですが、一応フランシスコ=ザビエルのみを描いた日本製の肖像画は他に現存例がなく、きわめて貴重な作品といわれています。
これが発見された経緯は、キリシタン大名・高山右近の旧領であった大阪府三嶋郡清溪村大字千提寺(せんだいじ・現在の大阪府茨木市)の旧家に伝えられてきたもので、1920年9月26日に発見されました。
江戸時代のキリスト教禁教によってキリシタンに関連する絵画類はことごとく破壊されましたが、この絵は秘匿されてきたことにより、弾圧の時代をくぐりぬけて奇跡的に伝えらたそうです。
発見後、昭和前期に神戸の南蛮美術コレクター池長孟氏が購入し、戦後、神戸市に譲り渡されました。
ところで教科書に載っている絵の中では、色々と字や絵が描かれているの、わかりますか?
わからない人は教科書や図説を開けて見てみよう!
肖像画は縦61センチ、横48.7センチ。
ザビエルが十字架のキリストを見上げ、胸の前で手を交差させて祈る姿が描かれています。
画中には、キリストの磔刑(たっけい)像が描かれていて、その上端に「INRI」と記されています。
これは「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味するラテン語の頭文字「INRI(IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM)」なんです。
燃える心臓を手にし、神の愛に圧倒されて叫んだ「主よ、十分です」との言葉(ラテン語)がザビエルの口元から記されています。
・・・・と、ちょっと前置きが長くなりましたが、今回は教科書でも取り上げられているフランシスコ=ザビエルの時代について教科書に沿って確認していきたいと思います。
対抗宗教改革
宗教改革の進展を前にカトリック教会は、教義の明確化と内部確信をつうじて、勢力をたて直そうとつとめた。これを対抗宗教改革(反宗教改革)と呼ぶ。1545年からトリエントで開かれた公会議で、教皇の至上権を再確認するとともに、腐敗の防止をはかり、他方では禁書目録をつくり、宗教裁判所を強化して思想統制をおこなった。
詳説世界史B(改訂版):山川出版社
トリエントとは、現在のイタリア・トレントです。
イタリアでも結構北の方ね。
公会議というワードが教科書で出てくるのは、第1回ニカイア公会議です。
なんとなく聞いたことがあるな、と思い出した方も多いのでは。
公会議とは、キリスト教において全世界の教会から司教等の正規代表者が集まり、教義・典礼・教会法などについて審議決定する最高会議のことを指します。
トリエント公会議は1545年から1563年まで18年も続きました・・・!
大きく3期に分かれましたが、1551年~1552年の第2会期と1562~1563年の第3会期の間に有名なアウグスブルクの宗教和議が結ばれました。
これは都市・領邦単位でルター派かカトリックかを選ぶことが認められ、いわゆる「領主の宗教がその領地で行われる」という原則が成立しました。
カルヴァン派は?
実はここではカルヴァン派を選択することは認められていません。
カトリックとプロテスタントとの対立はまだ終わりそうにありません。
なお、トリエント公会議は当初新旧両派の調停を目的に開かれたそうですが、新教側(プロテスタント)がほとんど出席しなかったため、結局旧教側(カトリック)の思想確認の場となったそうです。
そこでは教皇の至上権を確認したり、最初の禁書目録を制定、宗教裁判所を強化しました。
ちなみに、禁書目録とはカトリック教会が反カトリック的と判断し、その読書と所有を禁じた書物と著者のリストです。
なんとこれが廃止されたのは、1966年だとか。
スペインのイグナティウス=ロヨラがフランシスコ=ザビエルら同士とともに結成し(1534年)、教皇の許可をうけたイエズス会(ジェズイット教団)は、厳格な規律と組織のもとに、ヨーロッパだけでなく、海外でも積極的な宣教・教育活動をくりひろげ、カトリック教会の勢力回復に貢献した。この結果、南ヨーロッパへの新教の進出ははばまれ、南ドイツの多くの地域も新教徒から奪回された。海外でのカトリックの布教活動は、「大航海時代」の世界的通商・植民活動と密接なつながりをもっていた。1549(天文18)年にザビエルが日本に来航したのもその一環であった。
詳説世界史B(改訂版):山川出版社
さて、イエズス会の登場です。
イエズス会発足はイグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエルを含む6人の人物が創設しました。
彼らは何者だったのか?
イグナティウス=ロヨラは、1491年にスペインのバスク地方に生まれました。
当初は軍人として生きる普通の人間でした。
しかし戦闘中に大ケガをし入院。
その入院生活で触れたのが聖書やキリスト伝でした。
これがきっかけで生活や考えが一変。
退院後には修道院に入り信仰を深める生活、祈りを捧げる生活を送ります。
巡礼を行い、大学で神学を学び・・・
そして同じくバスク地方で生まれたフランシスコ=ザビエルと出会い、イエズス会を発足させました。
1540年には教皇パウルス3世にイエズス会が認められます。
神のために戦い、教皇にのみ奉仕する。
そしていつしかイエズス会は世界への宣教を行う一大勢力となったのです。
フランシスコ=ザビエルが日本にきたのはあまりに有名ですが、彼は日本に来る前にインドのゴアで布教活動をしていました。
その後マレー半島のマラッカに向かい、そこで日本人のジローと出会い、日本での布教を決意。
1549年に鹿児島に上陸するのです。
ドイツではルターの影響もあってプロテスタントが増えていましたが、このイエズス会の活動により特に南ドイツではカトリックの巻き返しが起こっていました。
プロテスタントも一枚岩ではないので、ルター派・カルヴァン派といった派閥による違いもあり、宗派による衝突も絶えず起こっていました。
宗教改革はカトリック教会の普遍的権威を動揺させたが、宗教改革と対抗宗教改革によってキリスト教が権威を高めた君主と結びついて、ヨーロッパの人々一人ひとりの生活をより強く律するようになるという側面もあった。他方、旧教徒と新教徒の対立の激化から、ヨーロッパ各地で宗教戦争がおこった。さらに、このような社会的緊張の高まりのなかで、「魔女狩り」がさかんにおこなわれた地域もあった。
詳説世界史B(改訂版):山川出版社
社会不安が高まるとなにかにすがりたくなるのが世の常です。
当時のヨーロッパはペストの流行や小氷河期と呼ばれる気候変動が起こっていました。
病に倒れ、飢えに倒れ、まさに終末を感じさせる絶望感。
なぜこんな世の中なのか。
その頃活版印刷技術の発展で流行った本があります。
「魔女に与える鉄槌」
そこには魔女を見つけ出す技術、魔女を自白させるための効果的な拷問法、処刑のための教義的に正当な方法等が綴られています。
いわば魔女狩りのためのハウツー本です。
そんな馬鹿な、と今では思いますが、世の中の不安や不幸が魔女によるものだとする考えは当時のヨーロッパに広がっていったのです。
魔女と疑われたら100%覆せない。
火炙りによる処刑が待っています。
万一魔女じゃないと証明されたとしても魔女と疑われた時点で罪。
万一魔女じゃないと証明されそうになっても、今度はそいつを魔女だと判断した者が罰せられるのでそういった意味でも決して覆ることはありません。
なんて理不尽な世の中なんでしょう。
でもこれが、中世ヨーロッパです。
要約
宗教改革によりプロテスタント勢力が拡大する中、カトリックは自身の教義を見直していた。
プロテスタントにやられっぱなしではいけない、ということでトリエント公会議で教皇の至上権や教義のあり方を再確認。
カトリック勢力回復のため、カトリック教会の修道会の1つであったイエズス会を公認し、宣教を使命とした布教活動にのりだします。
この頃から、祈りを主とした活動から布教を主とした活動が修道院で行われていきます。
プロテスタントとの対立はもちろん、堕落したカトリック信者にも目が向けられました。
そして彼らの活動のおかげか、ヨーロッパでも南ドイツでの勢力回復、また、大航海時代における植民地活動でもカトリック布教は多いに役立ちました。
そしてイエズス会はいつしか大規模な商業活動を行う一大勢力と化していきます。
なお、カトリック勢力回復といっても宗教争いがなくなるわけではもちろんなく、この後ヨーロッパは三十年戦争という悲惨な宗教戦争を繰り広げることとなります。
宗教争いが絶えない一方で、人々の生活も苦しいまま。
ペスト流行に食糧難。
なぜこうなったのか、その矛先は魔女狩りという形であらわになっていきます。
魔女のしわざと考えざるを得ない当時の人々。
いかに悲惨な時代だったか、これらの行動からも読み取れますね。
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